「ニッポンの芸能人」シリーズ50
2006/4/7
アメリカと韓国の歌手の日本の童謡唱歌。
「歌は世につれ、世は歌につれ」とは、ステレオタイプのテレビ番組のうたい文句だ。
現在のテレビでの音楽番組でオトナが快く楽しめる番組は稀少だが、日曜日朝9時の「新題名のない音楽会」には好感をもっている。
4月2日はアメリカのスーザン・オズボーンという女性歌手と韓国のRyuという男性歌手が、日本の童謡唱歌をうたった。
そのまじめで品性のある表現力が十分に楽しめた。
彼らは日本人がとくに親しみなじんだ歌曲をうたったのだが、日本語の歌詞を美しい発音と、そして悪ふざけや媚びのない二人の歌唱に会場の聴衆は惜しみない拍手を送っていた。
よく日本の人気歌手が童謡唱歌をうたう企画があるが、たいていは手垢のついたクセや浅はかなパフォーマンスでただ不快にさせられる。
若者たちに人気のある(らしい)桑田ナニガシなどは「たかが歌詞じゃねぇか」などと「歌のコトバ」をないがしろにして得意になっているが、スーザン・オズボーンやRyuの謙虚さや品性のカケラも持ち合わせないようだ。
(蛇足――ただしこの番組、内容はまあいいのだが、CMの出来の悪いのには呆れかえる! ホントにセンスを疑うね)
若者たちの歌はしょせんド演歌だ。
現在、いわゆる「演歌」という種類の楽曲はまるで売れないらしい。
あの種の歌の内容はまったくカビが生えたような内容のものばかりだ。
捨てられてメソメソと酒を呑む女か、その逆のだらしない男の場合か。なんにしても昔ふうにじめついた男と女の泥くさいベタベタ物語なのだ。
では、若者のオリジナル曲はというと、さすがに「人妻」だの「不倫」だのというモチーフはないが、だいたい「別れ」にまるわるセンチメンタル・ソングが大半だ。
その点、曲のファッションは今ふうでも、テーマやモチーフはド演歌と大同小異でうんざりする。
おまけに未熟な歌唱力ゆえに歌のコトバが鮮明に伝わってこない。
テレビのスーパーがなければ、その内容はほとんど理解不能だ。
だからどれを観ても聴いても、ブラウン管の中だけで、つまり「自分たちだけで完結してしまっていて」送り手であるはずの彼らのエモ−ションはまるで視聴者であるわれわれに伝わってこない。
こんな「ハンパな歌」に慣れてしまうと、たちまち「音楽センス馬鹿」になる。
「ミュ−ジック・フェア」という番組の場合。
この番組は長寿番組だ。ずっと好感をもっていた。が、最近、企画や内容に違和感をもってきた。
3月中には何十周年だかの記念番組(大阪ホールでのライブ公禄)をかいま観たが、出演者がこぞって悪ハシャギしているだけで、テレビ視聴者の存在を忘れているような無神経な出来だった。
とりわけ、いいトシをした歌手やジャズの弾き語りのオバサンたちの図にのりようは、ただ醜悪だった。
あえて我田引水! ということで。
06年3月29日新宿文化センター大ホールで「新宿平和都市宣言20周年記念」と題する新宿区主催のイベントがあった。
ぼくは昨年来、「平和を願う歌」を作詞して、親しい友人・有志の協力で楽曲化し、なんとかCD化する作業を続けてきた。
そのシリーズで6編の作詞(このHPのエッセイパ−ト2、第5回でも公開している)のうちの「鳥になれたらいいね」(作曲 園田容子)を新谷のり子さんがこの催してうたってくれた。
新谷のり子さんといえば「フランシーヌの場合」(1969年)という大ヒット曲があるが、ぼくは正直いって、いまの新谷さんとお会いし、そのステージでの歌唱に触れて素直に魅かれた。素敵だった。オトナの鑑賞にふさわしいものになっているということだ。(ぼくの作詞でなくともそう言える)
彼女の平和にたいする熱い思いの語りくちも、歌そのものにも、「大きく成長した」魅力があった。
いいトシをして悪ハシャギせず、コトバをないがしろにしない歌い手や作曲家とじっくり腰をすえ、オトナの人たちに耳を傾けてもらえる楽曲を創っていきたいとあらためて意欲している。
— posted by 本庄慧一郎 at 05:03 pm
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