「ニッポンの芸能人」シリーズ78

大都映画はB級とか三流といわれて
 昭和16年(1941)12月8日、日本はアメリカに宣戦布告した。
 つまり、第二次世界大戦の勃発である。
 日本国が一丸となって戦時体制となって「暗黒への急坂」を転がり始めた翌17年に、企業統合令に従い大都映画は日活・新興との「大日本映画――大映」になる。というより、事実上、大都は消滅するのだ。
 大都映画は昭和3年(1928)に河合徳三郎率いる河合映画としてスタートして、5年後、大都映画になる。
 その当初から、社長河合徳三郎の映画製作理念は徹底していて、「安く・早く・楽しく」で、先行する松竹・日活・帝キネなどの競合社に挑戦していった。
 その製作本数は、5年後の昭和8年には年間100本。ちなみに同年の松竹蒲田58本、松竹下加茂34本。日活87本というデータがある。記録的な製作ペースだ。
 しかもそれから昭和14年までの7年間、年間100本以上というペースが持続する。
 戦況悪化してくる昭和15年は91本、そして昭和16年は39本に激減。
 さらに昭和17年の合併年は4本のみ。
 その間、松竹や日活の競合社は「大都はどうせB級三流」とひたすら蔑視してきた。
 が、映画ファンはその大都作品をこよなく愛した。
 入場料を他社が50銭のところ大都は30銭以下。あくまでも大衆を考えての河合徳三郎の経営理念は映画ファンの絶大な支持を得た。その勢いは業界を文字どおり席巻したのである。

藤田まことの父親と松方弘樹・目黒祐樹の父親
 チャンバラと活劇と喜劇をモーレツなスピードで制作した。
 劇映画を1週間に2本というペースである。
 正月休みもふっとぶということもよくあった。
 したがって、スター級の俳優は年間の出演本数が10本以上なんてザラ。
 売れっこっだった松山宗三郎などは昭和12年の最盛期には年間28本!
 松山宗三郎はのちに演出もシナリオも書くようになる。やがて本名の小崎政房として新宿ムーランルージュの作家に転進する。
 戦後は劇団空気座を率いて、原作田村泰次郎、脚本小沢不二夫、演出小崎政房で衝撃作「肉体の門」のロングラン公演をやってのける。
 監督陣では、石山稔、吉村操、白井戦太郎、佐伯幸三、そして大伴竜三といった人たちが(たとえば昭和11年には)年間16本というペースで仕事をしたいる。
 年末も夏休みもなく、年間に16本の劇映画を作ったのだ。
 大伴竜三は、ぼくの母の妹の旦那だったが、豪放な九州男児の風格で魅力的な叔父だった。だが40歳にならずに急逝した。
 たしか同郷の少年をめんどうを見ていた。その少年もなにやら逞しくて、ニックネームが「サル」だった。
 その男がやがて、黒沢明の「姿三四郎」で主役を演じた藤田進だった。
 藤間林太郎というスターの本名は原田林太郎。時代劇だけでなく品格のある二枚目で現代劇の秀作にも出演した。
 この藤間林太郎の子息が、誰あろう藤田まことである。
 また、チャンバラの〔殺陣〕ではずばぬけて華麗な演技をほこった近衛十四郎の子息が、松方弘樹・目黒祐樹のご兄弟。
 大伴竜三のワイフであるぼくの叔母は、幼いこの二人によくおやつなどを食べさせたとか。
 そのほか、伴淳三郎・大岡怪童・大山デブなどユーモラスでユニークなキャラの役者がワキで大活躍していた。
 大都で助監督をしていた叔父(のちにフジテレビの開局時からディレクターとして活躍、作家としては見習いのぼくを鍛えてくれた小沢效――いま伊豆大島で大好きな釣り三昧で悠々と暮らしている。おヨメさんは当時〔準ミス・あんこ〕だった美人で、ぼくにとっても素敵な叔母だ。
 この大都映画を舞台にしたテアトルエコーの「大都撮影所物語」の登場人物と物語はすべて(せりふに登場する監督や俳優名は実名)フィクションだが、きっと楽しんで頂けるはずだ。乞う!ご高覧。

— posted by 本庄慧一郎 at 01:22 pm  

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