「ニッポンの芸能人」シリーズ83

「大都映画撮影所物語」公演2日目のこと
 とにかく、政治も社会もひたすら不快そのもの。
 というわけでもう一つ、(とにかく)、せめて個人レベルでは「不快なヤカラ、無礼なヤツとは絶対接触しない」。そして「快いエピソードを共有できる人とのみとご一緒する」という方針をテッテイする。
 「大都映画撮影所物語」テアトル・エコー公演、昨日11月22日初日、そして昨日23日が2日目。
 もう両手で数えきれないほどの「快いエピソード」が生まれている。

 さて今回は「チャンバリストクラブ通信」(平成4年4月発行)からの再録です。


            
押し入れの中のスクリーン
 
本庄慧一郎
 小学校1、2年生の頃(昭和10年代なかば)、手回しの35ミリ映写機を持っていた。押し入れの下段にそれを持ち込む。裸電球を光源とし、カラカラとハンドルを回す。当時すでに、マンガなどの子供向けフィルムが市販されていたが、とうてい買ってもらえない。(なのになぜ映写機だけがあったのだろう?)やむなく、叔父たちが働いていた巣鴨の大都撮影所へ出かけていって、残ラッシュフィルムをもらってくる。それを装?して、手早くハンドルを回す。押し入れの中の赤茶けた壁に、ほんのつかの間、B6版のノートを横にしたほどのスペースにチラチラと映像らしきものが映し出される。でもうっかりハンドルの回転を止めると、たちまち電球の集中熱で、ボッ!とフィルムが燃えあがるのだ。
 カビ臭い押し入れの暗闇と、いつ燃え出すかわからない危険(スリル)と、そして、あの映画館の大スクリーン(!?)に映し出される映画スター(いま思えば、近衛十四郎、大乗寺八郎、阿部九州男、杉山昌三九、松山宗三郎、水島道太郎、ハヤブサ・ヒデト――それに大岡怪童、山吹徳二郎、大山デブ子などなど)が、とにかく自分しかいない密室でせっせと動いて見せてくれるというコーフンはかなりのものだった。いや、そのままからだが爆発してしまうのではないかと思えるほどのエキセントリックな刺激だった。
 とはいうものの、もちろん音声なし。その彼らの動きとて、ハンドルの回転のムラムラがそのままイコールするわけだから、時にはやたら落ち着きがなく、また時にはノタリノタリとだらしがない。おまけに物語の展開などに一切関係のないコマ切れシーンばかり――。
 それでも飽くことなく、押し入れにこもって、カラカラと映写機を回していた。
 ある夏のさなか、ついに“押し入れ劇場”の熱気にあてられて、失神もした。
 でも、しつこいことに、その35ミリのフィルムを一駒ずつハサミで切って、日光写真にして印画したりもし、悪道達に分けてやって得意になったりもしたものだ。
 大都映画には、叔父たちが働いていた。
 大伴竜三という監督がいた。母の妹の旦那だったが、三十代後半で急逝する。
 戦時企業統合で、日活、新興キネマ、大都映画が合併する(昭和17年)ことになり、新会社は「大映」になるのである。
 叔父大伴竜三はその新会社がスタートした時点で逝ったのだ。
 この大伴の他に、カメラマン、シナリオライターで映画づくりに携わる叔父たちがいたのだ。
 正月など、大伴の家へ遊びにゆくと、石山稔監督などが来ていて、「おい坊主、子役として映画に出ないか」と再三声をかけてくれたらしい。(それは愛らしい坊ちゃんだった?)が、「映画は観るのはいいけど、出るのはイヤだ」とうそぶき、それでも過分のお年玉をせしめたと、後年になって小生の親父がいっていた。
 でも、撮影所に行くのは好きだった。たびたび親父をけしかけ(小生の親父もゲーノーが好きで、若いときには女形(おやま)を志し、新派の大部屋にもぐりこんだり、のちには歌舞伎の声色などで素人はだしの芸を披露していた)巣鴨の撮影所に連れていったもらった。
 ちょんまげの武士がタバコを喫っていたり、腰元のおねえさんがネーブルをかじっていたり、うさん臭いようなかご担ぎが真面目くさって社会談義をしているような風景がとりわけ面白く、興味津々で彼らにまつわりついて、シッ!シッ!と追い払われたものだ。
 四年前、新宿ムーランルージュのことをイメージのベースにして「赤い風車劇場の人々」という長編小説を書きまとめた。平成6年になって舞台化したいという申し入れを受けた。山本安英さんの“ぶどうの会”にいた森井睦氏(劇団ピープルシアター代表)が本を読んで気に入ってくれて……来年は「敗戦五十年目」ということで十月の上演をめざすとか。もう、脚本第一稿が出来た。いい舞台にしたい、と思う。
 新宿ムーランルージュにも叔父(母の弟)で劇作家の小沢不二夫がいた。もちろん大都の叔父大伴竜三とは義理の兄弟であり、他の叔父たち二人とはほんとうの兄弟になる。
 学齢にも達していなかったが、小生としてはあの戦前のムーランの舞台を一、二度観ている。そして、楽屋の空気にも触れている。
 大都映画のスタジオの空気を吸い、新宿ムーランルージュの楽屋の空気を知ってしまった子供は、当然のようにマセガキになり、長じてはまともな職業(?)をなんとなく忌避するようになった――。
 放送ライターと広告のコピーライター(TVコマーシャル企画制作)の仕事が永かった。が、近頃、時代小説を書きはじめ、周回遅れのランナーとして頑張っている。
 と同時に、小説「赤い風車劇場の人々」の舞台化をきっかけに、来年はなんとか戯曲にも挑戦(回帰)したいと考えている。
 あの押し入れの中の手回し35ミリのスクリーンからはじまった映画への好奇心は、その後“表現するという仕事”に関わることにつながっていった。
 あの押し入れのスクリーンの興奮はいまだに持続しているのだ。
 それにしても人間、妙なものと延々とつきあうものだ、とつくづく思う。
 ところで、いまなんとか大都映画をイメージのベースに小説を書きたいと思っている。その資料の一部である東京新聞(昭和18年6月3日)の「芸能案内欄」をコピーして「チャンバリストクラブ」の皆さんにプレゼントしたい。当時の映画館や映画の題名を眺めるだけでもユニークなタイムスリップがたのしめますよ。

— posted by 本庄慧一郎 at 04:38 pm  

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