「ニッポンの芸能人」シリーズ84

 今回は、演劇評論家上野三蔵(うえのみつぞう)氏のホームページ〔http://sibaiwatanosii.web.infoseek.co.jp/ Link 〕からの転載です。

大都映画撮影所物語

映画の撮影所と聞けば、古くは蒲田、大船、太秦の地名がすぐ浮かぶが、戦前巣鴨に撮影所があったのです。これほんと。
いまでは地元の人も殆ど知らないが、土木・建築業界の実力者河合徳三郎が昭和2年に河合映画を創設、規模を広げ昭和8年に「大都映画」を創立、撮影所はいまの西巣鴨交差点近くの白山通り沿いにあった。
当時の一流映画会社の日活や松竹と違い、時代劇、喜劇、アクションものなどの徹底した娯楽作品を低予算で、一週間に3本を製作、他の映画会社の入場料よりはるかに安く提供、全国のファンにたいへん喜ばれたそうだ。
昭和17年に戦時統合されるまで1,325本を製作、殆どが無声映画だったことが大都映画の特長だ。ここで育ち有名になったのが松方弘樹、目黒祐樹の父親・近衛十四郎、藤田まことの父・藤間林太郎らも輩出した。
前置きが長くなったのでそれでは昭和11年、冬、巣鴨の「大都映画撮影所」へ飛び込んでみよう。



B級撮影所で活躍するのはなんといっても大部屋の俳優たちだ。その控え室には頭から包帯を巻き、松葉杖をついた大木金峰(沢りつお)が大声で若い者たちに意見をしている。なんでこんな姿かというと撮影中に飛び込め!と監督にいわれクッションを置いていないのに飛び降りた無鉄砲な古参の大部屋俳優を筆頭に……。
セリフ覚えが悪く新派を追い出された花柳寿之輔(林一夫)〈この撮影所は無声映画一本やりだからセリフがしゃべれなくてもかまわない〉。
年増で面倒みがいい大部屋女優・原田節子(丸山裕子)〈あの大女優原節子ではない、念のため〉。照明係が本職なのに手が足らないのでいつの間にか俳優をやっている友田雄二(藤原堅一)。
なにせここの撮影所は一週間で二本も三本もクランクアップさせるから俳優たちは、自分が次はどんな役に出るのかさっぱり分からない。大部屋女優の新人は振袖姿からあっという間に顔を塗りたくった土人の女に変身。親が見たらビックリするだろう。
変わったところでは漫才師の荻窪オット(川田栄)。西荻ドッコイ(石本竜介)。二人合わせてオットドッコイが俳優になりたくて撮影所に入りびたる。
戦場みたいな控え室で大部屋俳優が立ち騒ぐなか文句をブツブツ言っているのがシナリオライターの島津英介(入江崇史)で、彼は「作品にきちんとした中身が入っていなければだめだ」。「俺だったらいま撮っているような作品は作らない」と部屋にやってきたここの専務・社長の側近・松井孫兵衛(沖恂一郎)にくってかかるが、もちろん、却下される。
外部の人間でお馴染みなのは、巣鴨署の冴えない巡査で、好きな幹部女優・香川糸子(村中実枝)にのほせあがっているが、検閲でいちゃもんをつける岩原源三(山下啓介)がしょちゅう見回りにくる。
悪い事に召集されていた大都映画のトップスターだった市川千代之介こと山田正作(古屋道秋)が軍隊を脱走。社長で、妾が何人もいる艶福家の河合徳十郎(熊倉一雄)が、彼をかくまっていたからそれでなくてもスピード撮影でてんやわんやの所内は、またややこしくなった。
山田を追いかけているのが憲兵の立花広光(川本克彦)で、立花「山田を引き渡せ」河合「いや山田なんか知らない」。と踏ん張る。後でこの憲兵さんと社長のことが……。
脱走の理由は「人を殺したくないし、殺されたくもない」というものだった。社長の河合が社長室でつぶやく。「いやな臭いがしてきた」。そう、日本は刻々軍靴の音が響く時代へ突入していった。
また、現場に戻りここのドル箱スター花野京四郎(松澤太陽)が紫頭巾に扮しバッタバッタと悪人をなで切りにしている最中に“召集令状”が届けられた。
撮影はオジャン。控え室は「花野京四郎君、出征壮行会」に早変わりした。ブツブツ言っていたシナリオライターの島津英介は映画のネタに困っていた会社に、“宗旨”を変えたのか、正義の味方“鉄仮面”が活躍する作品を考え実行に移そうとしていた矢先、壮行会の席に目しか見えない仮面スタイルの鉄仮面が入ってきた。
なかなか面を脱がない鉄仮面はなんと脱走兵の山田正作だった。ラジオは2、26事件の反乱軍兵士に「いまからでも遅くはない、現隊に戻れ!」を放送していた……。
喜劇をやらせたら抜群の実力を発揮する劇団だが、B級とも三流とも世間で言われながら大衆娯楽映画作りに徹した「大都映画撮影所」の大部屋俳優を全員が生き生きと活躍して「かつてそんな撮影所があったのか……」と笑いと楽しさがいっぱいの作品で、劇中当時撮影された無声映画が放映されるのもおもしろい試みだ。
だが、この作品の裏で表面には出ないが、召集令状や軍隊からの脱走と“反戦”も織りこまれ、喜劇だけではない大事な面も演じられている。フィーナーレで客の手拍子と楽しそうな笑い声が印象的だった。また時期をみて再演をしてほしい作品だ。

ひとこと
私が観た日に作者の本庄慧一郎さんに会ったので、作者の意図をきいたら「私の叔父が当時の大都撮影所で監督をしていたので巣鴨の撮影所は良く知っています」。
「古くから劇団の熊倉さんとは親交があって劇団用に原稿を頼まれたので、撮影所の大部屋俳優の泣き笑いを書いてみました。お客さんに評判がとてもいいので安心しました」と語ってくれた。

— posted by 本庄慧一郎 at 06:29 pm  

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