「社会&芸能・つれづれ愚差」第556回(通算668回)


あらめておのれの履歴をふり返ってみると、半世紀あまり一貫して日本語を素材にした仕事(ラジオ・テレビ・構成台本/舞台脚本/TVCMプロデユース・企画・COPY/時代小説・現代小説/五七五・評論集・エッセイ等)をしてきた。
現在の書斎は、古書店の倉庫のようで「創作の遊園地」になっている。
●執筆スタッフ 本庄慧一郎(望田市郎)/みさき けい/深実一露


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成人式と「虚飾」


●それにしても――
 「成人式」の日に、レディたちが派手な振袖姿でこれ見よがしに、カッポするようになったのはいつ頃か。
 紋付き羽織ハカマの青年らが酒をくらって乱闘騒ぎを起こしたのも記憶に新しい。
 いずれも「愚かしい」の一言に尽きる。

●そういえば――
 数十万円とやらの前払いで、華美な振り袖に身を飾る――という慣例そのものに狂いがある。

●そういえば――
 時代が違う。社会状況が異なる――といえば、その通りだが、オレの「20歳――成人の日」は、キリキリとまなじりを吊り上げていた……ような季節だった。
 たしか読売新聞だったか。
 「成人の日――記念論文募集」を催していて、「一般社会人の部」と「学生の部」があった。その「学生の部」の第一席論文は柴田(後に樋口)恵子さんだった。
 一面識もない望田市郎クンは、その柴田恵子さんにお便りを差し上げた。

●そういえば――
 当時、小学校OBの友人たちと「文学同人誌」を出していて、その仲間と柴田恵子さんと意義のある交流をした――。
 その当時のいきさつを、評論家として活躍する樋口恵子さんが「私は13歳だった/一少女の戦後史」で書いてくれた――。


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樋口恵子さんの著作本の一部



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「青い実の会」との出会い
 はたちの記念に投稿という決意表明をしたのはいいが、だからといって自分の生き方が確立するはずもなく、あいかわらず浮き足立った迷いの日々の連続だった。メディアのすくなかった時代、周辺で「学内有名人」になってしまい、みんなに「おごれ」「おごれ」といわれたのがオチであった。「幼稚っぽいこと考えてるんだなァ」と軽蔑のまなざしを向ける仲間もいて、今後、金輪際投稿のようなことはするまいと、心から誓った。
 とはいえ、今となってはいくつかの副産物があった。全国からの感想文が、ファンレター的なものから辛口批評まで、優に段ボール箱一つ分届いた。みんな目を通し、心に残った手紙には簡単な礼状を書いた。その中で、本ものの論文のとき以上に力を入れて返事を書いた手紙があった。望田市郎という、四角い文字の手紙は、私と同年、つまりはたちを迎えた青年からのもので、高等小学校(今の中学と思えばよい)を卒業後、町工場で働く労働者と名乗っていた。私は「あなたのお便りに、お調子ものの私はガーンとハンマーで一撃をくらった思いでした」と書きはじめた。
 望田さんのぶ厚い手紙の中身はもう正確に記憶していない。ようするに「自分のことだけ考えていい気になるなよ」という趣旨が、体験をまじえて切々と、大学仲間以上に理路整然と語られていた。家庭の事情で進学できなかった口惜しさは文面にあふれていたが、それは決して怨念や、怨念と表裏一体の上昇志向にもつながらず、自分自身であることを、同じ二〇歳の地平から出発させようというさわやかさがあった。
 私自身、同世代の状況をまるで知らなかったわけではない。だいたい貧乏は十分に経験しているつもりだった。父親が高齢で、退職してから戦後を迎えたから、財産税、旧円貯金封鎖の波をまともにかぶり、家作や山林は売り払った。六〇坪ほどの家屋が焼け残ったおかげで、家族が使う部分を極限まで縮小、間貸しをして現金収入をはかった時期がけっこう長かった。
 住宅難の時期だったから大学生を中心に借り手はあとを絶たず、今もつき合いが続く「元・借間人」がいる。貧しさの結果とはいえ、家中まるごと学生寮になったような、梁山泊的なムードがあって、私もいっしょに騒いだ。つまり私の貧乏は、親からもらうお金が少ない、という貧乏であって、進学できない、自分の生活費をかせぐ、ましてや親の生活費をかせぐ、という貧乏を知らなかったから「いい気になっている」といわれても仕方がなかった。
 望田さんは、東京北区にある滝野川第六国民学校の同級生一〇人ほどで「青い実の会」をつくっていた。五月の連休のある日、私はそのグループと駅で待ち合わせて、長瀞へのハイキングに合流した。今でいうなら合コンというところか。合流してみればなんのことはない、その小学校の「できる子」の同期会で、私と同じ大学に在籍する男性、著名な私大の女学生、幼稚園で働きはじめた女性、洋裁を学ぶ女性などがいた。高等小学校卒で働きに出た望田さんはむしろ異例の存在で、そんな彼がグループをリードしていた。
 負けん気で頑張り屋で人柄のよい望田さんは、その後も勉強をつづけ、著書も数多くあり、マーケティングの専門家となった。「青い実の会」とは望田さんを通して細いながらも交流がとぎれずにつづき、いっせいに還暦を迎えた年に、新宿のレストランでささやかな自前のお祝い会を開いた。小柄でやせた青年だった望田さんは、見違えるほど貫禄がついて、しかし最初に出会ったときと同じような敏捷な目つきで「これから直木賞を目指して作品を書く」と志をのべた。「はたちの記」のおかげで、私は同時代を歩むそれまで知らなかったグループの仲間に加えてもらった。
(「私は13歳だった/一少女の戦後史」樋口恵子著 1996年 筑摩書房刊より)

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2005年頃の親睦の集いで。樋口恵子さんと。





●そういえば――
 戦争の爆撃で家を焼かれ、学業からも切り離された口惜しい事情を越えて――なんとか「物書き業――作家・脚本家」としての職業を貫いてきた。
 樋口恵子さんとの出会いと、心ある友たちと共有した時間、さらに、一貫して通した職業としての「物書き業」は、すべてあの昭和28年(1953年)1月の「成人の日」を原点にしていると思う。

●それにしても――
 「人生で1回こっきり」の「成人の日」を、自覚のない、浮き足立った日として潰してしまうということは――なんとも情けなく、憐れなことだなぁ。






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ケイちゃんの目 ↓

Scenes of memories
あの日の浅草

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— posted by 本庄慧一郎 at 02:02 pm  

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