「ニッポンの芸能人」シリーズ24
2005/3/28
命の次に大事なものは金です。
渦中の人物、ホリエ氏がテレビカメラに向かって、したり顔でのたまった。
「命の次に大事なものである金を注ぎ込むわけですから……」
そんな言葉を口にする本人も、それを聴いた人たちも、とりわけ違和感がないようだ。
このヒトの心やボキャブラリーの中には、「愛」とか「平和」とか、「家族への思い」とかいったものは一切欠落しているらしい。
ニッポン放送もフジテレビ対ライブドアの主導権争いの成りゆきと、その周辺で群がり寄る者たちを眺めていると、やはり否も応もなく「守銭奴」という言葉が脳裏を去来する。
モリエールの「守銭奴」
どケチンボで大金持ちのアルパゴン。家族からも鼻っつまみの人物。
彼は娘を金持ちの老人に嫁がせようとし、息子を年寄りの大金持ちの未亡人とくっつけようと企む。
すべてが〔金欲のソロバン〕である。
しかも自分は年若い娘と結婚しようと画策。こちらは〔色欲のソロバン〕をはじく俗物。
そんな時、庭に隠しておいた大金が盗まれて、アルパゴンはきりきり舞い。
なおかつ、娘と息子の〔金欲物欲のための結婚作戦〕はこんがらがって、すべてがメチャクチャになる――。
という名作とうたわれるコメディ。
堤義明氏と武井保雄氏と……。
「貧乏でもこころ満たされている人間は金持ち、それも大変な金持ちです。だが、現実に大金持ちでも、いつ金を失うことになるかのべつビクついている者は、いつも冬の荒野にいるようなものだ」
シェークスピアの「オセロ」からのせりふです。
堤というヒトが、父親から受け継いだ資産を守り、増やすためにいかに「守銭奴」に徹したかはトコトン暴露された。
権勢を誇った当時の彼の背後の壁に掲げてあった「感謝と奉仕」の標語が一層の滑稽さを誘う。
その〔自家撞着〕ぶりは正にクレージィだ。
狂気と哀れと滑稽が縒り合わさっている。
その姿は「武富士」の武井保雄なる人物のそれとまったく類似しているようだ。
かつて天皇陛下の〔御真影/肖像写真〕に対してだれもが最敬礼を強いられたように、彼もまたおのれの肖像写真にたいして全社員に敬礼を強いた。
賞与を出せば全社員が御礼の手紙を書くことが義務づけられていた。
社員を叱咤激励する罵声怒声は旧軍隊並みで、暴力沙汰は日常化していたとか。
また「報告」と称する「密告制度」は徹底していて私物のケイタイ電話を検閲した。
盗聴器を仕掛けて自己保身に努めた……などなど、正に日本旧軍隊そのものだった。
その他、この二人の「守銭奴」と同種同類の者はいくらでもいたし、現在もいる。
あの顔、あの人、そして……。
いまぼくは、文庫書き下ろし時代小説の作家としては本庄慧一郎を筆名としている。
いっとき、本名の望田市郎でコピーライターとして仕事をし、その後、短篇小説をン十篇を望田市郎で書いた。
そして長篇にフィールドを変える時、編集者(染谷進氏と大西修氏)の提案で、本庄慧一郎とした。
じつはこの本庄という筆名は、いま話題のニッポン放送の番組で、本庄一郎という筆名で放送作家としてデビューしたのである。
ドラマ・コント・DJ構成。その他、各種キャンペーン(♪いざという時に〜「いつものラジオいつもの情報」とか、「二十歳の献血キャンペーン」などの企画・コピー・イメージソング・作詞など)のクリエイティブを担当した。
(フジテレビ開局準備の時は、試験電波用のドラマの脚本を書いたことは以前にものべた)
今回の件で、ニッポン放送・フジテレビのOBがテレビのインタビューに登場していた。
放送評論家ばば・こういちさん。ディレクターだった倉本聡さん、嶋田親一さん。南治朗さん。
そして現在レポーターの東海林範子さん(初々しい新人アナで「サザエさん」の枠付けをしていた)、そして現ニッポン放送社長の亀渕昭信さん。先輩のDJ高崎一郎さん……皆さんおなじみだった。
そして当時のぼくの構成の番組で出演を願った小沢昭一さんや熊倉一雄さん……若かったなあ!(お二人はいまでも親しくさせて頂いているし、またお二人とも益々お元気でご活躍である)
それにしても――こんどの件はやはり、金まみれ、欲まみれ。もうひとつ「守銭奴たちの狂乱」にただ不快にならざるを得ない。
— posted by 本庄慧一郎 at 11:06 am
「ニッポンの芸能人」シリーズ23
2005/3/21
地球は怒っている
自然災害(地震・豪雨・山林火災等)が連続している。「災害は忘れた頃にやってくる」という先人の警句はもう通用しない。
その苛酷な記憶が遠のく間などなく次の災害が襲っているのだ。
すでに南海・東南海地震など大規模の地震の予想が出されていて、強い関心と話題を集めていたが、今回の福岡・佐賀地方の地震はまったくのノーマークだったとか。
地球温暖化問題に端を発する気象異常、自然環境異変はエスカレートするばかりだが、「世界の指導者」を自称するアメリカなどの姿勢や行為は、時代の趨勢に離反し、逆行している。
たとえば、ブッシュなる者の私利私欲、おのれの利権にかかわる詐術(イラク問題等)はアメリカの良心ある者たちの告発で明白だが、その大きな誤謬は是正されることはない。しかも日本は危険な蛇行を続けるアメリカにひたすら無批判にシッポを振りながら追従するばかりだ。
人生イロイロ・世界もイロイロ?
小泉ソ−リ大臣は、あいかわらず「巧言令色」の厚顔鉄皮で押し通している。
器官としての耳膜や頭脳はもっていても、国民の声や言葉を理解しようとする常識人としての機能はもっていない人である。
歌謡曲の歌詞のモジリを得意げに政治の場で口にしてうそぶくが、現在、政治・社会の経済などのフィールドに顕在化し、さらに劣悪化している現象は、「人生イロイロ」などという無自覚・無責任な「お宅っぽい」自閉感覚には届かないのだ。
毎日、早朝4時起床、新聞3紙を精読する。
そのあと書斎に入って、時代小説の原稿を1日15枚のノルマ達成に努めるのだが、世界や日本の情勢へのイライラは、時代小説という表現方法ではカバーしきれないという不満が残る。
「君が代」を大きな声で歌え?
小学校の頃、空襲警報のサイレンに怯え、B29の爆撃に逃げ惑い、教師の皮のスリッパや鉄拳に脅迫されながら「君が代」を大きな声で歌えと命令された。
軍人などの訓示や演説の最中、栄養失調で体力のない児童がバタバタと転倒した。
それから60年。いままた「独立自衛のために」という狷介にしていかがわしいエセ愛国者らの旗振りで、貴重な平和の根がくつがえされようとしている。
すでに、「おらが国がよければそれでエエ」という時代はとうに過去のものだ。
たとえば「民族・宗教紛争/世界を揺るがす57の地域紛争」(島崎晋著)を読むまでもなく、世界や地球という規模と視野で考え、そして平和への行動を起こさないかぎり、日本というちっぽけな穴ぼこの安穏などあり得ない。
「マッチ擦るつかのま海に霧ふかし――」
寺山修司の短歌である。
「マッチ擦るつかのま海に霧ふかし」のあと七七には「身捨つるほどの祖国はありや」である。
社会保険庁の公金浪費の醜態。警察機構内の裏金作りの狂態。それに政治献金などにまつわる犯罪行為の隠ぺい。さらにチカン行為や女性スキャンダルを引きずる国会議員、もしくはそれが原因で落選しながらもいまだに未練たらしく右往左往するヤカラたち――。
日の丸をどうしろ、「君が代」を大きな声で歌えのと言えるガラかね。
たしかに、地球も怒っている。そして、心ある日本人も怒っている……といいたいが、「人生イロイロ」とほざいてシレッとしているソーリでは、これ馬の耳に念仏。現在のニッポン「身捨つるほどの祖国はありや」だね。
●かい間、見せつけられるテレビの――。
ニュース番組を見る目に、民放の番組やCMがとびこんでくる。出演者たちの悪ふざけと、まるで現実離れしたアホなCM群。
公共性などとNHKの連中が口にするソラゾラしさ。そして、ニッポン放送・フジテレビ・加えてホリエナントカが口にする公共性……まったく、どうしようもないニッポン!
— posted by 本庄慧一郎 at 11:05 am
「ニッポンの芸能人」シリーズ22
2005/3/14
なにを言っているのかね?
強制ワイセツという行為で現行犯逮捕された中西一善とかいう男の釈明会見(?)とやらをテレビで見た。
そのツラは、ひたすら醜くゆがんでいて、あたかも殺人犯のように映っていた。
その会見のしめくくりの言葉は「もう一生酒は飲まない。飲みたくもない」であった。
トンチンカンである。今回の「国会議員としての」という前提条件をはずしても、一切を酒のせいにしたこの言いぐさは、見当はずれもいいとこだ。酒以前に人間としての思考回路が狂っているのである。
つまり、人間としての「自己」とか「自主」というものが完全に欠落している。
世の中に酒好きはワンサといる。
もちろん、酒ぐせの悪い奴は世の中にワンサといる。
でも「良識ある酒好き」が大部分である。
酒好きがすべて、痴漢行為や幼児や婦女暴行をやらかすわけではない。
まったく酒の苦手な者もわけへだてなく(?)警察に逮捕されるようなことをやっているのだ。
この中西という男には、おのれがしでかしたハレンチ行為の事実認識能力もないのだ。
こいつが新進の国会議員?
お酒さえやめれば、まっとうな人間になれると本気で考えているらしいことに、ただ呆然とする。
石原慎太郎というヒトの言いぐさ。
この小西という男の事件についての石原サンの言葉は「お酒の飲み方、知らねぇんだよな」もヘンだ。
心の根っこの腐った者が酒を飲めば、その隠された悪しき部分は拡大される。
お酒に対するマナーや飲み方は無関係でしょうが、まったく!
だいたいこの石原サン、某女性週刊誌上で(東大大学院教授松井孝典氏の発言としながらも)「文明がもたらしたもっともあしき有害なものババアなんだそうだ。女性が生殖能力を失っても生きてるってのは、無駄で罪……」とほざいて、131名の女性たちに訴えられた。
東京地裁の判決では、1400万円の慰謝料支払いは退けられたものの、発言そのものは「憲法の理念に相違する」となったとか。
この石原サンの女性蔑視思想は以前から周知のことだが、こんな人間を都知事に選んだのも「圧倒的多数の女性たち」だったのだ。
群れをなして走り廻る女性たち。
小泉ソーリ大臣に「純チャーン!」と狂気した女性群がいた。そのうち若い演歌歌手を追いかけて「キヨシ! キヨシ!」とはしゃいでいるオバサンたちがやたら目立った。
さらに「ヨン様ァ!」と群れをなして叫ぶ女性群がバッコする。
このところもっぱら「マツケンサンバ」で悪のりしている女性群――。
石原サンみたいなことを言うつもりはないが、社会の表層をその日その日の風に吹き流されて右往左往する女性たちの集団行動は、ただ醜悪であることにちがいはない。
女性に対するD・Vとか暴行事件の続発
バブル崩壊後10余年――すべてが過去のように思われるが、あの「毒素」は潜伏し、生き長らえていると言い続けてきた。
ニッポン放送・フジテレビ対、ライブドアの問題にも、その「毒」が介在していると考える。
そして、次つぎと続発する殺人事件の犯人たちの精神にも、その「毒」が浸透していると思わざるを得ない。
まったくいいトシをして浮かれ騒いでいる女性たちの心の根っこにも同質の「毒」がある断言するね。
人間としての「自己」とか「自主」を喪った者ばかりが右往左往する社会は、否も応もなく危険なのだ。
なんてコトを書いていたら、また今日(3月13日)の新聞に長崎県世知原町長と、もう一つ、和歌山県御坊市の中学校の先生の強制ワイセツ行為が報じられていた。
まあ、どうしようもないオバサンたちもいるけど、オジサンの中にもとんでもないのがいますねぇ。
◎追伸。
あえて蛇足を一言。
相手の「合意」を得ていない性的行為はすべて犯罪なのですよ。世のスケベおじさ んよ。まったく情けないジジイも多いなあ。
— posted by 本庄慧一郎 at 11:04 am
「ニッポンの芸能人」シリーズ21
2005/3/7
「カリスマ」という言葉。
堤義明なる人物の栄光(らしきこと)と挫折について、例によってマスコミは飢えたハイエナのように食らいついている。
そのマスコミの一端を占有してきたニッポン放送・フジテレビもまた同業他者に食らいつかれて右往左往している。
そして、31歳でもうギラギラと脂ぎった面をした男が現代のヒーロー風にマスコミ界を闊歩する――。
そうでなくても、現今の政治・社会、やたら苛立たしい事象ばかりだが、どの人物も例外なく不快感を増幅する輩ばかりだ。
ところで、このところマスコミがみだりに乱用する言葉に「カリスマ」がある。
この言葉はドイツ語で「奇跡や予言など超人的なことを行う天賦の能力。超人的な能力や資質によって、大衆の感情を操ることができる統率力」(imidas)とある。
この「カリスマ」、最近では、町の美容師や日本料理の板前や、ときにはラーメン屋のオジサンにもくっついていたから、どうせろくでもないものと思っていた。
堤ナニガシ氏はあからさまにそれを証明してくれた。(そう、いまさらのようにね)
かつて、あの狂気の総統ヒットラーは「カリスマ」と称されたが、彼の思惑と行動のもたらしたものは、大量殺戮と目をおおう荒廃だけだった。
そういえば、堤氏に限らずカリスマ経営者ともてはやされた者たちは次つぎと失墜していった。この種の「ニセ・カリスマ」はワンサといてそれこそ、〔枚挙にいとまがない〕。
高く上ったものほど落ちやすい。
上記の言葉は古代ローマの哲学者セネカがいった。
事業家としての堤氏の来し方とその転末についてそっくり当てはまる言葉のように思えるが、どうかな?
というのは、彼は果たして「高く上がった」とはとても思えないからだ。
父親康次郎氏の作ったクローン人間、といわれている事業家としての「質」もあるが、それだけではない。
彼は「私利私欲」という醜悪な地べたをただひたすら這い廻っていただけなのだから。
「家訓」とか「遺訓」といった呪縛は、自我や自主を培うことをしなかった哀れな若者をたんなる「守銭奴」に追いやっただけだ。
その当初から、きわめて明確に見極められたはずの経営者としての、また人間としての過誤や錯誤や、また確信犯的な欺瞞や詐術などを放置してきた側近連中の無責任さや無能さともども、なんともヒドイね、としか申し上げられません。
もっと日本語を活用してみたら?
堤氏のような人間は「カリスマ」ではないのです。たとえば、ハダカの王様とか、お山の大将(おれ一人)とか、バカ殿様とかね。それに「ドン・キホーテ」とかもあるでしょうが。
そうです。ぼくはこのところ時代小説を書いているが、彼の日常生活の一部始終を知ると、まさしくバカ殿様以外のなにものでもないようだ。
徳川綱吉などという五代将軍の思惑や行動には、たんなる異常者としかいえないものが沢山ある。歴史の資料のあれこれを突き合わせてみても、綱吉と同質の「思い上り将軍」はずいぶんいたようだ。
徳川家の創始者家康はこういっている。
「及ばざるは過ぎたるより優れり」とね。
しかし、金と権力を手にして者は、結局はオーバーランするのだ。人間ってしょせんは浅ましく哀しい動物なのでしょう。
孟子というオジサンは「力を似って人心を収斂した者を覇者という」などと口走っているが、でもぼくとしては「独裁はつねに単なるアリアであって、けっしてオペラそのものではない」(ルードヴィヒ――独・作家)にうなずく。
それにしても、いまのゲーノー・マスコミ界には堤のオジサンをグーンと小粒にしたような、セコイのがいっぱいウロウロしてますよ!
そういえば、アメリカに刑務所に服役した「カリスマ主婦」というのがいました!
— posted by 本庄慧一郎 at 11:02 am