大都映画には年間16本監督した猛者がいた
朝日新聞06年10月7日の記事に「日本映画新人監督の波」があった。
いわゆる松竹・東宝・東映といったメジャーの会社の不甲斐なさはともかく、新人といわれる人たちはインディーズ系で頑張っているようだ。
このところ日本映画も元気を取り戻してきているというのだが。
今回ぼくがテアトルエコー第131回公演の脚本の素材にした「大都映画」は、弁士つきの無声映画からトーキー映画へ移行する時代に、そのパワー(制作エネルギー)で、松竹や日活や帝キネ等のA級と称される映画会社を超えていた。
たとえば最盛期の昭和12年の記録のベスト5では、石山稔監督16作品、ハヤフサヒデト16作品、吉村操16作品、白井戦太郎16作品、大伴竜三16作品、中島完三13作品……と目をむくような数字である。(ちなみに大伴竜三はぼくの叔父貴であった)
ではこの昭和12年の人気俳優たちの出演本数はどうなっているか。
トップ松山宗三郎(のちに監督もやったし、本名小崎政房として新宿ムーランルージュで脚本家として多くの佳作を書いた)は、なんと28作品に出演している。2位が大乗寺八郎の23作品。水島道太郎20作品。杉山昌三九17作品。藤間林太郎17作品。阿部九州男15作品。ハヤフサヒデト(監督もやりながら)12作品……エトセトラ。
女優陣では、大河百々代20作品。三城輝子(河合徳三郎社長の令嬢で、男装の美剣士役が大当り! 大伴竜三監督作品が多い)が15作品。
琴糸路13作品。久野あかね(松山宗三郎夫人)9作品……など。
年間制作本数にもビックリ!
全国に直営館をもち映画配給会社としてスタートした河合映画は、昭和3年(1928)には年間72本制作している。(これもスゴイ!)
昭和4年79本、昭和5年86本、昭和6年111本、昭和7年99本、昭和8年103本、昭和9年105本、昭和10年109本、昭和11年106本、昭和12年110本、昭和13年104本、昭和14年102本、昭和15年(戦時態勢深刻化する)91本、昭和16年(12月に第二次世界大戦勃発)39本。そして企業統合令で日活・新興との三社合併の昭和17年はたった4本。
これらの数字からも映画や演劇などの「平和であってこその産業」というものの運命が如実に読み取れる。
前出の記事の中に「06年9月〜12月の公開作品だけでも(新人作品は)20作品とある。
しかも、現在の映画制作費という名の資金集めは至難の作業である。
その点大都映画の河合徳三郎社長は、ほとんどが自己資金でのマネージメント。利益もかなり上げていたようで、大都の主役スターたちはすでに一流スターとして君臨していた市川右太衛門や嵐寛寿郎たちに遜色のないギャラ(月給千円?)を取っていたとか。
1週間に2作品を上げる――というペースはなんとしてもモーレツとしか言いようがない。
若いとき大都で助監督をしていた叔父(のちにフジテレビのディレクターとして活躍していて現在も健在)の小沢效は、「現場の人間は安月給だったが、撮影所はイヤな時代とは別天地のパラダイスのように楽しかった」と証言している。(現在の釣三昧の大島からこのシバイを観に来てもらう予定だ)
さて当時の「暗黒への時代への傾斜」のさなか、そんなユニークな大都映画撮影所のクレイジーともいうべきフンイキが、舞台に再現できるか――?
新聞2紙(すでに東京新聞10月11日付と読売新聞10月23日付)に公演の紹介がのり、多くの人たちの問い合わせがある。
やっと元気を取り戻してきつつある日本映画だが、時代がこれ以上キナ臭くなると、「平和産業としての映画」は、ヤバイですぞ。
もっとも同記事には「若手の作品には社会性やメッセージ性が希薄」といわれ、さらに「単なる私小説や自分探しにとどまるか……」とダイナミズムが欠落しているとある。
若いうちからチマチマと老成するなんてイヤだなあ。
「ニッポンの芸能人」シリーズ78
2006/10/20
大都映画はB級とか三流といわれて
昭和16年(1941)12月8日、日本はアメリカに宣戦布告した。
つまり、第二次世界大戦の勃発である。
日本国が一丸となって戦時体制となって「暗黒への急坂」を転がり始めた翌17年に、企業統合令に従い大都映画は日活・新興との「大日本映画――大映」になる。というより、事実上、大都は消滅するのだ。
大都映画は昭和3年(1928)に河合徳三郎率いる河合映画としてスタートして、5年後、大都映画になる。
その当初から、社長河合徳三郎の映画製作理念は徹底していて、「安く・早く・楽しく」で、先行する松竹・日活・帝キネなどの競合社に挑戦していった。
その製作本数は、5年後の昭和8年には年間100本。ちなみに同年の松竹蒲田58本、松竹下加茂34本。日活87本というデータがある。記録的な製作ペースだ。
しかもそれから昭和14年までの7年間、年間100本以上というペースが持続する。
戦況悪化してくる昭和15年は91本、そして昭和16年は39本に激減。
さらに昭和17年の合併年は4本のみ。
その間、松竹や日活の競合社は「大都はどうせB級三流」とひたすら蔑視してきた。
が、映画ファンはその大都作品をこよなく愛した。
入場料を他社が50銭のところ大都は30銭以下。あくまでも大衆を考えての河合徳三郎の経営理念は映画ファンの絶大な支持を得た。その勢いは業界を文字どおり席巻したのである。
藤田まことの父親と松方弘樹・目黒祐樹の父親
チャンバラと活劇と喜劇をモーレツなスピードで制作した。
劇映画を1週間に2本というペースである。
正月休みもふっとぶということもよくあった。
したがって、スター級の俳優は年間の出演本数が10本以上なんてザラ。
売れっこっだった松山宗三郎などは昭和12年の最盛期には年間28本!
松山宗三郎はのちに演出もシナリオも書くようになる。やがて本名の小崎政房として新宿ムーランルージュの作家に転進する。
戦後は劇団空気座を率いて、原作田村泰次郎、脚本小沢不二夫、演出小崎政房で衝撃作「肉体の門」のロングラン公演をやってのける。
監督陣では、石山稔、吉村操、白井戦太郎、佐伯幸三、そして大伴竜三といった人たちが(たとえば昭和11年には)年間16本というペースで仕事をしたいる。
年末も夏休みもなく、年間に16本の劇映画を作ったのだ。
大伴竜三は、ぼくの母の妹の旦那だったが、豪放な九州男児の風格で魅力的な叔父だった。だが40歳にならずに急逝した。
たしか同郷の少年をめんどうを見ていた。その少年もなにやら逞しくて、ニックネームが「サル」だった。
その男がやがて、黒沢明の「姿三四郎」で主役を演じた藤田進だった。
藤間林太郎というスターの本名は原田林太郎。時代劇だけでなく品格のある二枚目で現代劇の秀作にも出演した。
この藤間林太郎の子息が、誰あろう藤田まことである。
また、チャンバラの〔殺陣〕ではずばぬけて華麗な演技をほこった近衛十四郎の子息が、松方弘樹・目黒祐樹のご兄弟。
大伴竜三のワイフであるぼくの叔母は、幼いこの二人によくおやつなどを食べさせたとか。
そのほか、伴淳三郎・大岡怪童・大山デブなどユーモラスでユニークなキャラの役者がワキで大活躍していた。
大都で助監督をしていた叔父(のちにフジテレビの開局時からディレクターとして活躍、作家としては見習いのぼくを鍛えてくれた小沢效――いま伊豆大島で大好きな釣り三昧で悠々と暮らしている。おヨメさんは当時〔準ミス・あんこ〕だった美人で、ぼくにとっても素敵な叔母だ。
この大都映画を舞台にしたテアトルエコーの「大都撮影所物語」の登場人物と物語はすべて(せりふに登場する監督や俳優名は実名)フィクションだが、きっと楽しんで頂けるはずだ。乞う!ご高覧。
昭和16年(1941)12月8日、日本はアメリカに宣戦布告した。
つまり、第二次世界大戦の勃発である。
日本国が一丸となって戦時体制となって「暗黒への急坂」を転がり始めた翌17年に、企業統合令に従い大都映画は日活・新興との「大日本映画――大映」になる。というより、事実上、大都は消滅するのだ。
大都映画は昭和3年(1928)に河合徳三郎率いる河合映画としてスタートして、5年後、大都映画になる。
その当初から、社長河合徳三郎の映画製作理念は徹底していて、「安く・早く・楽しく」で、先行する松竹・日活・帝キネなどの競合社に挑戦していった。
その製作本数は、5年後の昭和8年には年間100本。ちなみに同年の松竹蒲田58本、松竹下加茂34本。日活87本というデータがある。記録的な製作ペースだ。
しかもそれから昭和14年までの7年間、年間100本以上というペースが持続する。
戦況悪化してくる昭和15年は91本、そして昭和16年は39本に激減。
さらに昭和17年の合併年は4本のみ。
その間、松竹や日活の競合社は「大都はどうせB級三流」とひたすら蔑視してきた。
が、映画ファンはその大都作品をこよなく愛した。
入場料を他社が50銭のところ大都は30銭以下。あくまでも大衆を考えての河合徳三郎の経営理念は映画ファンの絶大な支持を得た。その勢いは業界を文字どおり席巻したのである。
藤田まことの父親と松方弘樹・目黒祐樹の父親
チャンバラと活劇と喜劇をモーレツなスピードで制作した。
劇映画を1週間に2本というペースである。
正月休みもふっとぶということもよくあった。
したがって、スター級の俳優は年間の出演本数が10本以上なんてザラ。
売れっこっだった松山宗三郎などは昭和12年の最盛期には年間28本!
松山宗三郎はのちに演出もシナリオも書くようになる。やがて本名の小崎政房として新宿ムーランルージュの作家に転進する。
戦後は劇団空気座を率いて、原作田村泰次郎、脚本小沢不二夫、演出小崎政房で衝撃作「肉体の門」のロングラン公演をやってのける。
監督陣では、石山稔、吉村操、白井戦太郎、佐伯幸三、そして大伴竜三といった人たちが(たとえば昭和11年には)年間16本というペースで仕事をしたいる。
年末も夏休みもなく、年間に16本の劇映画を作ったのだ。
大伴竜三は、ぼくの母の妹の旦那だったが、豪放な九州男児の風格で魅力的な叔父だった。だが40歳にならずに急逝した。
たしか同郷の少年をめんどうを見ていた。その少年もなにやら逞しくて、ニックネームが「サル」だった。
その男がやがて、黒沢明の「姿三四郎」で主役を演じた藤田進だった。
藤間林太郎というスターの本名は原田林太郎。時代劇だけでなく品格のある二枚目で現代劇の秀作にも出演した。
この藤間林太郎の子息が、誰あろう藤田まことである。
また、チャンバラの〔殺陣〕ではずばぬけて華麗な演技をほこった近衛十四郎の子息が、松方弘樹・目黒祐樹のご兄弟。
大伴竜三のワイフであるぼくの叔母は、幼いこの二人によくおやつなどを食べさせたとか。
そのほか、伴淳三郎・大岡怪童・大山デブなどユーモラスでユニークなキャラの役者がワキで大活躍していた。
大都で助監督をしていた叔父(のちにフジテレビの開局時からディレクターとして活躍、作家としては見習いのぼくを鍛えてくれた小沢效――いま伊豆大島で大好きな釣り三昧で悠々と暮らしている。おヨメさんは当時〔準ミス・あんこ〕だった美人で、ぼくにとっても素敵な叔母だ。
この大都映画を舞台にしたテアトルエコーの「大都撮影所物語」の登場人物と物語はすべて(せりふに登場する監督や俳優名は実名)フィクションだが、きっと楽しんで頂けるはずだ。乞う!ご高覧。
— posted by 本庄慧一郎 at 01:22 pm
「ニッポンの芸能人」シリーズ77
2006/10/13
三谷幸喜さんの「笑いの大学」が動機になった
そろそろ2年になるか。つまり2004年の師走12月に、三谷幸喜さん原作・脚本の映画「笑いの大学」が封切られた。
初日第一回目を観るために早起き(?)して、新宿に出かけた。
複数の映画館のあるそのビルに人だかりがしていた。
さすが三谷作品! と感嘆した。が、ほとんどの人は「ハウルの動く城」の観客と知った。「笑いの大学」の入りは、ぼくにはほどほどで、イライラせずにすんだ。
この作品は昭和15(1940)年、日本が第二次世界大戦へと転がり落ちてゆく「危険な時代」を背景にしている。
榎本健一と並んで、日本のコメディの主流をなした古川ロッパの座付作者と警視庁保安課の検閲官のやりとりをカリカチャアして描いている。
「一人は笑いを愛した。一人は笑いを憎んだ。二人の友情が完璧なコメディを創り上げた」(パンフレットより)となる。
原健太郎氏による「エノケンロッパとムーランルージュの三国史」という文章がパンフレットにのっているが、ぼくの小説としての第一作は「赤い風車劇場の人々」(影書房1992年)で戦前の新宿ムーランルージュのことを書いた。座付作者として叔父・小沢不二夫が活躍していたのだ。
それで「笑いの大学」のテーマになっている当時の言論統制のための検閲制度については小沢不二夫から体験談を聞いていた。
ということで、「へえ! 若い三谷さんがこんなネタで書くのか」と大いに刺激された。同時に「ボヤボヤしていられない」と呟いて、なんとか時間を割いて、舞台脚本「大都映画撮影所物語」を書き上げた。
そしてさっそく、劇団テアトル・エコーの熊倉一雄さんにプレゼンテーション。
ぜひ芝居のホンを! というぼくの希望はざっと2年後の06年11月22日〜12月6日の恵比寿エコー劇場で上演されることになった。
時代小説と共存させたい舞台オリジナル脚本
小説第一作「赤い風車劇場の人々」は原作提供というカタチでピープルシアターによって2度舞台化された。
昭和20年5月の空爆で爆撃炎上する新宿の劇場と劇団員たちの物語だが「大都映画撮影所物語」ともども芸能界を素材にした作品。
近々、戦前か戦後すぐの浅草を素材にコメディを書く予定だ。
文庫書き下ろし時代小説と平行して、舞台のコメディはすでに10企画以上を用意してある。「赤い風車劇場の人々」も是が非でもおのれの手で脚本化して舞台にかけたいと熱望している。
こんどのテアトル・エコーの「大都映画撮影所物語」は〔ぼくのもうひとつの出発〕と位置付けている。キザとそしられるのを百も承知でいえば、なんとか「シンのある笑い」のあるコメディを書いていきたい。
なにしろ、同時代の、あるいはぼくと前後する諸氏諸兄姉のようなそれらしい趣味がない。世界旅行もグルメもゴルフもギャンブルも直接的な興味がない。書く、表現するということにしか心が向かない無粋なヤカラだが、つい先日の東京新聞の記事(10月11日の朝刊と夕刊)のように書いていただいてとてもうれしい。
これからも「上質の楽しいエピソードを共有できる人たち」と仕事をしていきたい。
— posted by 本庄慧一郎 at 08:09 am
「ニッポンの芸能人」シリーズ76
2006/10/6
皆さん、ほんとはいい顔をしていた!
丹波哲朗さんが亡くなった。
霊界との〔通信〕をしていたというお方だが、戦時下の学徒出陣を経験していた1922年生まれ。戦後はGHQの〔通訳〕もつとめていた。
書庫の中から資料の雑誌「ノーサイド」(文芸春秋1995年2月号)を取り出し、いままでぼくが仕事(テレビ番組・CF)や取材・インタビューで直接にお会いした男優のポートレートをあらためて眺めた。
若き日のスター(今回は男性)たちは、まったく惚れぼれするような男ぶりで、あらためて感嘆のため息が出た。
直接お目にかかったスターたちのラインアップ
(雑誌「ノーサイド」の掲載順)三船敏郎・鶴田浩二・進藤英太郎・水島道太郎・上田吉二郎。三井弘次・宇野重吉・東野英治郎・佐々木孝丸。
三國連太郎・山村聡・岡田英次・山形勲・森繁久彌・伴淳三郎・堺駿二・トニー谷・フランキー堺・田崎潤・沼田曜一・江見俊太郎・多々良純・佐野浅夫・須賀不二夫・南道郎・西村晃。
島田正吾・辰己柳太郎・瀬良明・沢村いき雄。
仲代達矢・藤木悠・高島忠夫・勝新太郎・津川雅彦・山本豊三・高倉健……。
皆さん、ほんとうにいい顔をしていた。
ぼくは「そっちの趣味はゼロ」だが、じっさい、身ぶるいするほどに魅力的な風貌をもっていた。
いや、二枚目はもちろんだが、 フランキー堺などの三枚目の男たちも圧倒的に味のある個性をもっていた。
現在はどうか。ウーン。なんと言えばいいのかね。
その昔(昭和40年――1965年)、カメラのCFを制作するので、三國連太郎さんとお会いして打合わせした。凄いほどの魅力のパワーを放っていた。
ついでに書けば、ケーブルTVで小川真由美主演の「女ねずみ小僧」を放映していて、準主役の三國連太郎さんが、おカマっぽい殺し屋でノビノビとイキイキと演じていて、やたら楽しかった。(ついでにプロデュースの荒井忠さん、音楽が橋場清さん、主題歌がヒデとロザンナ――皆さんとなじみだったので、なぜかジーンとしてシンミリした)
ビールのCFでは高倉健さんのオーラにビビった。いい男だ!
それから……「黒い花びら」を唄った水原弘さんに番組収録のあと連れていってもらった銀座の店で、勝新太郎さんの酒席でのそのオーラにふれて――。
ほんとうにいい男がいなくなったなあ。
うす汚いガキ・タレントばっかしで……これじゃあ、まともなオトナはそっぽを向くなあ。
— posted by 本庄慧一郎 at 08:12 am