以前、ある地方の知人から講演を依頼された。
テーマは「子どもと教育」。ぼくには「ガラにもない」という思いもあったが「ご自身の幼い頃のことを自由に語ってくれればいい」ということなので引き受けた。
振り返ればざっと50年、「物を書く」という生業(なりわい)でなんとか暮らしてきた。
税務申告書では「文筆業」であるが、時と場合によっては「自由業」と分類されることもあった。
しかし最近、テレビのニュースワイド番組などの取材もので、インターネット喫茶の常宿者や、ヨレヨレのホームレスのおやじが「職業は何ですか?」というインタビュアーの質問に「自由業です」と答えるケースが多い。
だいたいは日雇いか、せいぜい「古雑誌拾い」といった男たちがぬけぬけと「自由業です」とのたまうのである。
そこでついぼくは「オレのはちょっと違うぜ」と思わずつぶやくのである。
さて、冒頭の講演の件であるが、その地域の文化ホールの会では地元の老若男女が大ぜい詰めかけていて、まるでなじみのないおエライさんも何人か来ていた。
開会のあいさつに続いて、その市の教育委員会の長が「前座」と自称するスピーチを行った。
その赤ら顔の、タバコ臭そうなずんぐりオジサンは、「現在の子どもに必要なのは道徳教育、いや修身教育であります」と堂々(!)の語り出し。
その主旨たるや……たちまちウンザリ、不機嫌になって、壇上を降りたくなった。なんとか思いとどまって約束の1時間をこなしたが、不愉快と腹立たしさで、当方のはなしも支離メツレツになったね――。
山崎正和中教審会長の「道徳教育は必要ない」
文部科学相の諮問機関・中央教育審議会の会長山崎正和氏は学者として評論家として、また劇作家として着実なお仕事をなさっている方だ。
この山崎氏が「学校制度の中に道徳教育は必要ない」という見解をのべたという。(07年4月27日、朝日・東京新聞他)
この記事を読んで、やはり前述の地方の教育委員長なる男の悪臭ふんぷんたる論旨と、腐りきった保守政治家そのもののようなキャラをすぐ想起したものだ。
それでなくとも、このところ政治や経済などの中枢にのさばる者たちの目に余る道徳欠落、または皆無の「言行不一致」の茶番劇にうんざりしているのだ。
まずソーリ大臣の提唱する「美しい国」と、現行の政策との矛盾と乖離(かいり)は、すでに心ある識者たちの指摘・糾弾するところだ。
この日(4月27日)の同じ朝日新聞に加藤和哉氏(聖心女子大准教授)も、政府の教育再生会議がめざす「道徳教育を教科に」に対して正面から疑義を呈している。
山崎正和・加藤和哉両先生のご意見に文句なしに賛同する。
だいたい、「道徳」を強いる者たちの顔を見たい。それらの者たちの人間としての資質をまず検証すべきである。
きっと、本来の「道徳」という言葉が示す意味や内容とはまったく逸脱したような人物ばかりが浮かび上がってくるはずだ。
つねにお世話になっている「類語新事典」によると――
文筆業(現在は時代小説、これからは劇作も)としては、辞書辞典などは手放せない。とりわけ「類語辞典」はのべつ頁をくる。
たとえば「欺瞞」の項を引く。
騙す、誤摩化す、引っかける、嵌める、陥れる、化かす、詐欺ぺてん、朝三暮四、言いくるめる、瞞着……とあるある、その数、百語を越す。それらの言葉はそっくりすべてが現在の政治・社会に具体的な事象・事件として跳りょうしている。
「性格」の項はどうか。
狡い、老獪、海千山千、悪擦れ、厚顔、鉄面皮、破廉恥、恥知らず、性悪……こちらも、政治・社会のフィールドでもっぱら大活躍の用語だ。
「改正」という名の「改悪」の多数決!
「道徳教育」とは一言でいえば「理想を自覚させる教育」である。
現在、政治の場でリーダー面してのさばる人間の中に「理想を自覚させる教育」を唱導し得る人物がいるとはテンから考えられない。
つまり「道徳」をダレが言うのかが問題なのだ。
遵法精神の欠落している欠陥人間が「法を改正する」としれっとのたまうのは、それこそ「道徳に反する」。
加藤和哉氏の文中に「(道徳という科目を作って、それを成績評価の対象にすれば)生徒たちは与えられた「正解」だけを口にするだけですまそうとする(略)」と論断する。
人間としての勉学は、賞金額と派手で俗悪な演出のテレビのクイズ番組における「正解」と無関係である。
根腐れ感覚と遺物思考のオッサンたちの「暴力的多数決」の横行を絶対に許してはならない。
ほんとうに子どもたちの明日を考え、日本の未来を真摯に考えるまっとうな(!)有識者の皆さん、声を上げて下さい!
無関心、無思慮、無節操、馬耳東風、無自覚、不用意、無意見……といった者たちに揺さぶりをかけて下さい!
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山崎和正氏はかつてから「柔らかい個人主義」を提唱しておられた。含蓄のあるいい言葉だ。
「道徳というものは、鼻で人間をあしらう策略の最大のものだ」ニィチェ。