「社会&芸能・つれづれ愚差」第5回(通算115回)

「うさん臭い」教育委員長のこと
 以前、ある地方の知人から講演を依頼された。
 テーマは「子どもと教育」。ぼくには「ガラにもない」という思いもあったが「ご自身の幼い頃のことを自由に語ってくれればいい」ということなので引き受けた。
 振り返ればざっと50年、「物を書く」という生業(なりわい)でなんとか暮らしてきた。
 税務申告書では「文筆業」であるが、時と場合によっては「自由業」と分類されることもあった。
 しかし最近、テレビのニュースワイド番組などの取材もので、インターネット喫茶の常宿者や、ヨレヨレのホームレスのおやじが「職業は何ですか?」というインタビュアーの質問に「自由業です」と答えるケースが多い。
 だいたいは日雇いか、せいぜい「古雑誌拾い」といった男たちがぬけぬけと「自由業です」とのたまうのである。
 そこでついぼくは「オレのはちょっと違うぜ」と思わずつぶやくのである。
 さて、冒頭の講演の件であるが、その地域の文化ホールの会では地元の老若男女が大ぜい詰めかけていて、まるでなじみのないおエライさんも何人か来ていた。
 開会のあいさつに続いて、その市の教育委員会の長が「前座」と自称するスピーチを行った。
 その赤ら顔の、タバコ臭そうなずんぐりオジサンは、「現在の子どもに必要なのは道徳教育、いや修身教育であります」と堂々(!)の語り出し。
 その主旨たるや……たちまちウンザリ、不機嫌になって、壇上を降りたくなった。なんとか思いとどまって約束の1時間をこなしたが、不愉快と腹立たしさで、当方のはなしも支離メツレツになったね――。

山崎正和中教審会長の「道徳教育は必要ない」
 文部科学相の諮問機関・中央教育審議会の会長山崎正和氏は学者として評論家として、また劇作家として着実なお仕事をなさっている方だ。
 この山崎氏が「学校制度の中に道徳教育は必要ない」という見解をのべたという。(07年4月27日、朝日・東京新聞他)
 この記事を読んで、やはり前述の地方の教育委員長なる男の悪臭ふんぷんたる論旨と、腐りきった保守政治家そのもののようなキャラをすぐ想起したものだ。
 それでなくとも、このところ政治や経済などの中枢にのさばる者たちの目に余る道徳欠落、または皆無の「言行不一致」の茶番劇にうんざりしているのだ。
 まずソーリ大臣の提唱する「美しい国」と、現行の政策との矛盾と乖離(かいり)は、すでに心ある識者たちの指摘・糾弾するところだ。
 この日(4月27日)の同じ朝日新聞に加藤和哉氏(聖心女子大准教授)も、政府の教育再生会議がめざす「道徳教育を教科に」に対して正面から疑義を呈している。
 山崎正和・加藤和哉両先生のご意見に文句なしに賛同する。
 だいたい、「道徳」を強いる者たちの顔を見たい。それらの者たちの人間としての資質をまず検証すべきである。
 きっと、本来の「道徳」という言葉が示す意味や内容とはまったく逸脱したような人物ばかりが浮かび上がってくるはずだ。

つねにお世話になっている「類語新事典」によると――
 文筆業(現在は時代小説、これからは劇作も)としては、辞書辞典などは手放せない。とりわけ「類語辞典」はのべつ頁をくる。
 たとえば「欺瞞」の項を引く。
 騙す、誤摩化す、引っかける、嵌める、陥れる、化かす、詐欺ぺてん、朝三暮四、言いくるめる、瞞着……とあるある、その数、百語を越す。それらの言葉はそっくりすべてが現在の政治・社会に具体的な事象・事件として跳りょうしている。
 「性格」の項はどうか。
 狡い、老獪、海千山千、悪擦れ、厚顔、鉄面皮、破廉恥、恥知らず、性悪……こちらも、政治・社会のフィールドでもっぱら大活躍の用語だ。

「改正」という名の「改悪」の多数決!
 「道徳教育」とは一言でいえば「理想を自覚させる教育」である。
 現在、政治の場でリーダー面してのさばる人間の中に「理想を自覚させる教育」を唱導し得る人物がいるとはテンから考えられない。
 つまり「道徳」をダレが言うのかが問題なのだ。
 遵法精神の欠落している欠陥人間が「法を改正する」としれっとのたまうのは、それこそ「道徳に反する」。
 加藤和哉氏の文中に「(道徳という科目を作って、それを成績評価の対象にすれば)生徒たちは与えられた「正解」だけを口にするだけですまそうとする(略)」と論断する。
 人間としての勉学は、賞金額と派手で俗悪な演出のテレビのクイズ番組における「正解」と無関係である。
 根腐れ感覚と遺物思考のオッサンたちの「暴力的多数決」の横行を絶対に許してはならない。
 ほんとうに子どもたちの明日を考え、日本の未来を真摯に考えるまっとうな(!)有識者の皆さん、声を上げて下さい!
 無関心、無思慮、無節操、馬耳東風、無自覚、不用意、無意見……といった者たちに揺さぶりをかけて下さい!



 山崎和正氏はかつてから「柔らかい個人主義」を提唱しておられた。含蓄のあるいい言葉だ。

「道徳というものは、鼻で人間をあしらう策略の最大のものだ」ニィチェ。

— posted by 本庄慧一郎 at 01:26 pm  

「社会&芸能・つれづれ愚差」第4回(通算114回)

昭和20(1945)年4月の記録と記憶
 ぼくは昭和20年は小学6年生。4月に高等小学校(のちの新制中学)に進学した。
 が、すぐの4月13日(金)から翌14日未明にかけて、アメリカ軍B29、330機の無差別爆撃が4時間以上あって、父親と8歳下の弟と3人(母親は前年病死していた)で命ひとつで逃げ惑った。
 学友の大部分はすでに地方へ学童疎開していた。
 滝野川第六小学校全員で30名〜40名ほどがさまざまな理由で「残留組」として東京に居残っていたのだ。
 家は当時の北区・板橋区一帯の陸軍造兵厰(兵器製造工場の大集団地)に近く、米軍の爆撃はひたすら熾烈を極めた。
 焼夷弾の落下・爆撃の形容を「雨あられのように」などいうが、決してこんな言い方がオーバーではなかった。
 焼夷弾の直撃をうけた無惨な屍。頭髪とからだに油脂をあびた者の火だるまの七転八倒。泣き叫びながら水を求めて疾駆する者の熾烈な憤死……。
 ぼくら家族はなんとか生きのびた。命ひとつだけの「生存」である。
 これらの記憶はいずれ記録として詳細に書きしるす。
 それにしても、なんとか「平和」を保っての63年間だったが、いままたどういうつもりか、屁理屈をこねての戦争への傾斜が目に立つ。

この2007年4月という日々は……
 都知事選が終わって、キツネに化かされたような思いが遺った。
 あいかわらず政治・経済・社会……ひたすら荒れている。
 過ぐる4月10日(火)の朝日新聞のコラム「天声人語」でバグダッドが〔陥落〕して丸4年……ということをあらためて思い知った。
 そして、そこに引用されている歌人岡野弘彦氏の「砂あらし 地(つち)を削りてすさぶ野に 爆死せし子を抱き立つ母」を読んだ。
 その歌集「バグダッド燃ゆ」をさっそく購入した。
 「東京を焼きほろぼしし戦火いま イスラムの民にふたたび迫る」など、思わずうなずく歌ばかりが並んでいる。
 「天声人語」氏も言う。
 「6万という市民が死んだが、最大の犠牲者は、岡野さんも詠んだ子どもたちではないか」。さらに「血なまぐさい日常がもたらす心の傷を思うと暗然となる。平穏な日々が戻っても傷はいつまでも残る。訓練を受けた米兵でさえ、心的外傷のため、帰国後に暴力的になったりする者が後を絶たないのだ」とアピールする。
 折しもイラクに新たな爆破テロの惨事が続発している。その惨状は正に戦争そのものの無惨さである。

現在のアメリカには2億丁の拳銃が流布している
 折しも、バージニア州の大学で銃の乱射事件があった。その狂気に満ちた事件は「武力や爆薬ですべてを解決する」というアメリカの流儀とイクォールしているはずだ。2億丁の拳銃が日常の生活の中に野放しなっている国は真の民主国家か。
 わが日本でも、拳銃を振り回す男に、長崎市長4選をめざす者が選挙演説中に射殺された。
 「美しい国」だの「東京再起動」だのというスローガンはともかく、それを主導する者たちの思考の本質はとても信じられない。
 すでに殺人と汚職と欺瞞と……ひたすら汚濁にまみれた現世で、高齢者や病人や職にありつけない者たちが悲鳴をあげている。
 ゴールデン・ウィークなるバカ騒ぎの季節を迎えるこの4月、やはり63年前のことを否も応もなく思い返す。

 歴史や経験に真摯(しんし)に学ぼうとしない人類は……。
 くそ。呉越同舟なんて、ほとほとイヤですねぇ。  

— posted by 本庄慧一郎 at 04:46 pm  

「社会&芸能・つれづれ愚差」第3回(通算113回)

本庄慧一郎のメモ帳から

「議事堂とは名ばかりで、実は(たんなる)表決堂である」(尾崎行雄/政治家)
「議事堂とは名ばかりで、多数決横暴の館に過ぎない」(本庄慧一郎)



「正直は最良の外交政策である」(ビスマルク/ドイツの政治家)
「ウソ八百は最良の外交政策である」(本庄慧一郎)



「教育の危機は、教育の危機ではなく、生命の危機なのだ」(ペギー/フランスの作家)
「教育の危機は、教育の危機ではなく、偏屈な陰謀家たちの人間社会破壊の暴挙なのだ」(本庄慧一郎)



「弁解は飾られた嘘である」(ホープ/イギリスの詩人)
「弁解は恥を知らぬ人間のたわ言である」(本庄慧一郎)



「愛は一切に勝つ!」(ヒルティ/スイスの哲学者)
「嘘言は一切に勝つ!」(本庄慧一郎)



「世の中は海に似ている。泳げない者は溺れる」(スペインの諺)
「現在の社会は険しい山に似ている。足の弱い者はみな挫折する」(本庄慧一郎)



「世間は、人間の真の値打ちそのものより、値打ちがありそうな人をチヤホヤする」(ラ・ロシュフコー/フランスのモラリスト)
「世間は、人物の真の値打ちそのものより、心にもないウソを出まかせに口にする人をチヤホヤする」(本庄慧一郎)



「幸福な者は、ただの棒を植えてもレモンの木になる」(イタリアの諺)
「不幸な有権者は、いくら心して投票しても裏切りとゴーマンなる為政者にぶち当たる」(本庄慧一郎)



「原子力発電所の周辺には広島の光輪が見える」(ラルフ・E・ラップ/アメリカの科学者)
「原子力発電所の周辺には地球破壊・人間破滅への立て札が見える」(本庄慧一郎)

— posted by 本庄慧一郎 at 05:09 pm  

「社会&芸能・つれづれ愚差」第2回(通算112回)

失言・暴言・妄言……
 テレビの愚にもつかないおしゃべり――使い捨てことばがコンクされたような番組と、無神経に挿入されるCMの、これまた騒々しいことといったらない。
 なにしろ、押しつけがましく悪趣味な各社・各メーカーのCMが視聴者の〔共感〕などおいてけぼりにして暴走する。そして、番組のシークエンス〔流れ〕をひたすら強引に寸断する。
 テレビの番組(民放)のほとんどは、品性とか品位を喪失した。いや、かなぐり捨てた。
 もうひとつ、番組のタイム(放送時間枠)に対するCMタイムにも規定があったはずだが、現行はそれも無視されているようだ。
 個々の番組内容のねつ造問題もうんざりだが、民間放送としての番組全体の〔品質管理〕のタガが完全にはずれている。
 関西テレビ、フジテレビの問題だけではない。
 すでに「放送法の改正」という重大な問題が発生している。
 かつて「放送番組のスタンダード」と目されていたNHKの動きもアタマから信用できない。
 あいかわらず現在もNHK関係者によるいくつものスキャンダルも続発している。根腐れを起こしている樹は、いずれにしても枯渇する。
 その点では、強引といわれる菅総務相の「自浄能力がない」という意見は当たっているが――。
 自浄能力の欠落しているのは、テレビというメディアだけではない。菅総務相も属する政治の中枢にある者たち、あるいは地方行政府の責任者たちの失言・暴言・虚言・妄言……などなど、とてもまともな者の言葉とは思えない文言が跳梁跋扈(ちょうりょうばっこ)している。
 こういう現象を「世も末だ」という。噫々!

作家城山三郎氏の言葉
 この春、いくつかの訃報に接した。
 作家城山三郎氏は、後追いの物書きとして畏敬する方であった。
 政治小説・経済小説、あるいは企業小説といった分野で意欲作・話題作を発表した先達である。
 その城山氏は、ご自身の戦争体験から得た哲学をひとすじに貫き通した方であった。
 現在の失言・暴言・虚言・妄言のハンランする社会に、あらためて城山三郎氏の言葉をここに記したい。



「旗」  城山三郎

 旗振るな
 旗振らすな
 旗伏せよ
 旗たため

 社旗も 校旗も
 国旗なる旗も
 運動という名の旗も

 ひとみなひとり
 ひとりはひとつの命
 (中略)
 生きるには
 旗要らず
 旗振るな
 旗振らすな
 旗伏せよ
 旗たため
 限り命のために



P.S
 新都立養護学校の普通教室の正面に、常時、国旗のプレートを掲示することになったという。(07年4月5日東京新聞)
 時代錯誤、時代逆行の危険潮流が堂々と罷り通る。
 国旗掲揚、国家斉唱を強要する亡霊たちの妄言を断固として打ち消せ。

— posted by 本庄慧一郎 at 05:28 pm  


*** お知らせ ***
自主CDを制作
21.1:130:128:0:0::center:0:1::
平和を願う歌
「鳥になれたらいいね」
総合プロデュース:本庄慧一郎
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