「社会&芸能・つれづれ愚差」第281回(通算393回)

浅草・原宿・高円寺

 浅草の「サンバ・カーニバル」、原宿の「表参道元気祭/スーパーよさこい」、そして高円寺「阿波おどり」は、いまや「夏のTOKYO三大祭り」というのだとか。
 2012年8月25日(土)は、この3つのフェスタが同日実施される日だ。
 それで突然、写真撮影に出かけると宣言し、ワイフに「え?」と言わせる。
 なにしろ、炎暑・猛暑・熱暑の昨今、ぶっ倒れたらドースルの?である。
 もちろん、ココロとカラダの準備と配慮は万端。AM8:30に家を出る。
 それで、まず原宿に到着して――オレって、雑踏やワサワサとした場所が大のニガ手(になった)だったと気付いた。
 だから恒例の「1万歩ウォーク」も郊外の川沿いのコースや寺のある里山に好んで出かけていたのダ。
 でも、しかし、それはそれとして、とジリジリ照り付ける街に足を踏み入れたネ。

それぞれの街のもう1つの意味

 「夏のTOKYOの三大祭り」はともかく、実はそれぞれの街に格別の思いがあった。
 浅草は、芸能好き(芝居・寄席など)の親父に連れられて幼い折から慣れ親しんだ。
 師であった叔父の劇作家小沢不二夫が水の江滝子の劇団たんぽぽや森川信劇団や女ケンゲキと言われた不二洋子の劇団などに脚本を書いていたので、それらの舞台を見ていた。
 しかも、あの国際劇場が健在たった頃には、SKD/松竹歌劇団の演出部に入らないかという話などもあって「浅草はもう1つの故郷」とも称していたくらいである。
 あの「神谷バー」の先代社長神谷信弥さんとはとりわけ親しくしていて、お店の広告制作なども引き受けていたし。

そして、原宿・高円寺

 原宿表参道は、コピーライター時代、オフィスがあった。
 CMディレクターの内田健太郎氏とずっとコンビで仕事をしていて、望田市郎(本庄慧一郎の本名)のイニシャルMと、健太郎のイニシャルのKの2字で「MK」というクリエイティブオフィスを持っていた。
 同じビル内に、ジャズピアニストの八木正生氏をメインにした音楽制作プロもあり、表参道も毎日のように通った。
 そういえば、すぐ近くに高倉健さんのオフィスがあった。アサヒビールのCF制作で親しくご一緒したなぁ。作詞望田市郎/作曲八木正生/制作ARA/歌デュークエイセスも好評だった。
 歌詞の『おまえがいてオレがいて、人生にがいかショッパイか』を健さんに「いい詞ですね。網走番外地という映画(新網走番外地 嵐呼ぶダンプ仁義-1972年)の野天ぶろのシーンで田中邦衛サンと唄わせてもらいます」と言われた。
 八木正生さんの作曲で「きょうも地球はきげんがいい」というサクラカラーフィルム(当時)のCMソングを作り、CFでは若くてピチピチしていたアン・ルイスが出演、くっきり印象にある。
 そしてこのCFのプロデューサーが21プロダクションのプロデューサーだった稲見一良さん――このひとは50代はじめにガンにかかる。それから小説を書きはじめて、「ダックコール」でなんと「第4回山本周五郎賞」を受賞した!この稲見さんの進言もあって、本庄慧一郎として小説を書き始めたのだった。
 原宿表参道には「良き仕事仲間たち」の思い出が刻まれている。
 そして、高円寺――それまでのラジオ・テレビの放送作家、平行してのTVCF制作の仕事から、スッパリとチェンジして時代小説に挑んだ忘れられない仕事場があった。
 そのせいもあって、いまもって高円寺の街が大好きだ。

結局、TOKYO3大祭りは「ほっとけ」になった。

 原宿では明治通りの竹下通り口に近い東郷神社に詣り、地を圧するように鳴く油ぜみの声にシビレた。朝早くからゾロゾロ歩く竹下通りの若い女の子たちとはまるで異なる大樹の生い茂る神社の境内で、戦時の「魚雷」のリアル模型とその記述にしばし、足をとめた。
 折しも、朝日新聞のコラム「天声人語」の「いまの若者は東郷平八郎と東条英機という人物の違いも分からない」といった意味の一文があった。
 その差異は竹下通りと東郷神社という背中合わせの異風景に象徴されている。
 若者たちよ! 謙虚に勉強しろよ。これからの自分のために!
 これからの自分の将来のために。


NONALNUM-313030A5B1A5A4A4C1A4E3A4F3A5B5A5A4A5F3C6FEA4EA

          ケイちゃんの目  ↓

NONALNUM-3238312D333933A4E8A4B5A4B3A4A4

               原宿 よさこい祭りのオープニング

NONALNUM-3238312D333933C5ECB6BFBFC0BCD2

               原宿 東郷神社の「魚雷」の模型

NONALNUM-3238312D333933A3D4A5B7A5E3A5C4

                 竹下通り ショップの店頭

NONALNUM-3238312D333933C0F5C1F0BBA8C6A7

               浅草 サンバのダンサーは見えず

— posted by 本庄慧一郎 at 11:42 am  

「社会&芸能・つれづれ愚差」第280回(通算392回)

●西尾忠久さんのこと。

 2012年7月28日。食道ガンで逝去された。82歳。ご冥福を祈ります。
 日本の広告業界は、当初、そっくり理論やシステムはアメリカ流を模倣していた。
 西尾忠久さんは、早くからそれらのフォーマットを研究し、「日本流」にアレンジして紹介するホンを著わした人だった。
 その後、ン十年という時を経て池波正太郎の「鬼平犯科帳」などの時代小説に並々ならぬこだわりを見せ、関連の著作などをまとめられた。
 小生は、演劇をめざしながらも結局は(生活のためという理由で)放送作家として、ラジオ・テレビ番組の制作・構成の仕事にどっぷりつかり、同時に草創期のCM制作業界に飛び込んだ。
 当時(1965年〜)西尾さんのオフィスは麹町(日本テレビの近く)にあって、「仕事以外のことでゆっくり話がしたいなぁ」と何度か言い合ったりしたことがある。
 まさか当時は、彼が「時代小説」にのめり込むとはチラとも思わなかった。

 かく申す小生も、その後、書き下ろし時代小説文庫を書くことになり、ざっと50冊ほどにエネルギーを注いだが、その頃「書く」ことは念頭になかった。

 振り返ると、当時の業界(放送・広告界など)では、かの阿久悠氏、五木寛之氏、野坂昭如氏、青島幸男氏、伊集院静氏などさまざまな皆さんと背中合わせで仕事していた。(林真理子氏もまだコピーライターを名乗っていた)
 なにしろ(いつも言うように)小生は、仕事に関してはていねいにきちんとパートナーシップを発揮して、スムーズに仕事を完了するが、その他の場(ゴルフ、マージャン、旅行、はたまた競輪競馬などのギャンブル。そして同業者同士のサケなども)でのおつきあいは一切お断りのヘンクツ男だったので、それらの有名人たちとも、とりわけ親交がなかったのダ。

 一時、「テレビ文化」とか「コマーシャル文化」などと過大にチヤホヤされ、「広告作家」とか「コマーシャル・アーチスト」ともてはやされたこともあるが、最近はそんなコトバは耳にしない。

 そういえば、広告業界で「コピーライター」を名乗っていた者たちの中には、「作家」をめざした者は多い。
 コピーライター業といえば、文字を並べる。文章らしきものを操る……一見「作家業」に見える仕事だ。
 いや、現在の「放送作家」と称する人たちの中にも、「作家」という2文字にアコガレている人は少なくないはずだ。
 最近、たまたまおつきあいをすることになった広告業界の者の中にも、シャーシャーと「作家」と自称しているのがいる。まるでそれらしい実績も見当たらないのだが、社交の場などでも、まあ、ヌケヌケと「作家」と自称していた。
 「作家」そのものが、若い女の子をたぶらかしたり、はたまた「オレオレ詐欺」をやらかすわけではないから、「ま、いいか」なのだが、こちとら、「そのハシクレ」としては何だか、尻がムズムズするようなハズカシさを感じたりするね。
 要するにアレは、劣等意識のウラ返しなんだろうねぇ。


●西尾忠久さんの肩書きは「コピーライター・作家」

 西尾さんといえばやはり「フォルクスワーゲンの広告キャンペーン」(1963年/美術出版社)を起点とする広告ビジネスとそのクリエイティブなどに関する膨大な著作物が記録としてある。
 かく申す本庄慧一郎も、演劇(舞台脚本演出など)を志望していたが、昭和40(1965)年からざっと20年間は、本名望田市郎名で広告(CF)ビジネスに入れ込んだ。
 あえて書くのもナンだが、国の内外の受賞作は150ほどになる。(個人としての仕事がほとんどだ)一時、オフィスを法人化し、制作などに着手したが、経営については(いろいろ正当な理由はあるが)しょせんは「もう一つ」で結局はフリーに戻った。
 そして、あたりまえのように「原点」である作家業に回帰した。
 当時は「宣伝会議」や「ブレーン」にあれこれの原稿を書き、業界関係者の座談会に出席をし、司会もこなした。
 西尾忠久さんの著作物のタイトルをあらためてチェックすると、広告関係もさることながら「世界の名品」とか「西洋占星術」「香水」「世界の名店さんぽ」「グルメ」……などなど実に多種多様である。
 しかし、1996年代に入って、以後、終生こだわった「鬼平」のホンが登場してくる。そのタイトルに「鬼平犯科帳を助太刃いたす」(KKベストセラーズ)などがある。
 このことを知って、ぜひ「あの西尾さんにコンタクトを――」と思ったのだが、つい、雑用にかまけて無沙汰のままに時が過ぎた。
***

 小生の物書き業の師は、劇作家三好十郎(1902年〜1958年)である。代表作「ゴッホ小伝/炎の人」であり、「浮標・ブイ」であり、「斬られの仙太」であり、「おりき」であり、そして……全作品である。

 

NONALNUM-3237382D333930BBB0B9A5BBE1

劇作家・三好十郎氏(箱根仙石原にて/当時 本名望田市郎撮る)


 同時に、この三好十郎氏と親しかった叔父の劇作家小沢不二夫(1912年〜1966年/ムーランルージュ新宿座出身)にも「特訓」を受けた。
 この小沢不二夫は、テレビドラマ&映画「鬼平犯科帳」のゼネラルプロデューサーだった市川久夫氏と大の仲良しだった。
 「不二ちゃん」「凡さん」(凡は市川久夫さんの俳名だった)と呼び合っていた。
 そしてかく申す小生は、市川久夫氏とは「江戸を歩く会」のメンバーとしてごく親しく、散策や酒席をご一緒した。

 さらに、その小沢不二夫が、辰巳柳太郎、島田正吾、そして若き日の緒形拳の出身母体である劇団新国劇に舞台脚本を書いたこともあって、たびたび新国劇の舞台を観ていたし、辰巳柳太郎氏の楽屋にも(小沢不二夫の助手として)おじゃました。若き日の緒形拳さんが付き人として働いていた。
 この新国劇で池波正太郎氏は「脚本・演出」の座付き作者だった。

 また、小沢不二夫とは現役劇作家の会「鬼の会」のメンバーであの「池波正太郎先生」は小生の身近にいらっしゃった。

NONALNUM-3237382D333930B5B4A4CEB2F1

小沢不二夫主宰の「むさしの演劇ゼミナール」に贈られた商業演劇で活躍する
ベテラン劇作家の連名額。


 そう……もし、西尾忠久氏が晩年、あのように「鬼平」にこだわるらなら、ぜひあれこれの話をする機会を早く作ればよかったと、とことん後悔している。
 かく申す本庄慧一郎は、池波正太郎氏に絶大な信頼を得ていた市川久夫氏に「そのうち、本庄慧一郎作品も映像化しようね」とおっしゃって頂いていたのだし。
 その後、小沢不二夫作「石狩の空の下で」では、それまで通行人や端役ばかりだった緒形拳は初めて役らしい役を演じて、実質的舞台デビューを果たした。
***


市川久夫氏から本庄慧一郎に贈られた書籍

NONALNUM-BFCDB4D6C1F6C7CFC5F4C9BDBBE6

          市川久夫氏の交遊録

NONALNUM-B5B4CABFA4F2B6CBA4E1A4EBC9BDBBE6

            市川久夫氏・監修




本庄慧一郎が頂いた市川久夫氏の葉書

NONALNUM-BBD4C0EEB5D7C9D7313939372E30372E30382E

NONALNUM-A5CFA5ACA5AD313939372E372E38



NONALNUM-BBD4C0EEB5D7C9D7313939382E31302E3138

NONALNUM-A5CFA5ACA5AD313939382E31302E3138



NONALNUM-BBD4C0EEB5D7C9D7313939392E31302E3236

NONALNUM-A5CFA5ACA5AD313939392E31302E3236



NONALNUM-3237382D333930A3B3BFCDBCCCBFBF

左:市川久夫氏 真ん中:作家・二階堂玲太氏 右:本庄慧一郎


— posted by 本庄慧一郎 at 01:48 pm  

「社会&芸能・つれづれ愚差」第279回(通算391回)

●西尾忠久さんのこと。

 2012年7月28日。食道ガンで逝去された。82歳。ご冥福を祈ります。
 日本の広告業界は、当初、そっくり理論やシステムやアメリカ流を模倣していた。
 西尾忠久さんは、早くからそれらのフォーマットを研究し、「日本流」にアレンジして紹介するホンを著わした人だった。
 その後、ン十年という時を経て池波正太郎の「鬼平犯科帳」などの時代小説に並々ならぬこだわりを見せ、関連の著作などをまとめられた。
 小生は、演劇をめざしながらも結局は(生活のためという理由で)放送作家として、ラジオ・テレビ番組の制作・構成の仕事にどっぷりつかり、同時に草創期のCM制作業界に飛び込んだ。
 当時(1965年〜)西尾さんのオフィスは麹町(日本テレビの近く)にあって、「仕事以外のことでゆっくり話がしたいなぁ」と何度か言い合ったりしたことがある。
 まさか当時は、彼が「時代小説」にのめり込むとはチラとも思わなかった。

 かく申す小生も、その後、書き下ろし時代小説文庫を書くことになり、ざっと50冊ほどにエネルギーを注いだが、その頃「書く」ことは念頭になかった。

 振り返ると、当時の業界(放送・広告界など)では、かの阿久悠氏、五木寛之氏、野坂昭如氏、青島幸男氏、伊集院静氏などさまざまな皆さんと背中合わせで仕事していた。(林真理子氏もまだコピーライターを名乗っていた)
 なにしろ(いつも言うように)小生は、仕事に関してはていねいにきちんとパートナーシップを発揮して、スムーズに仕事を完了するが、その他の場(ゴルフ、マージャン、旅行、はたまた競輪競馬などのギャンブル。そして同業者同士のサケなども)でのおつきあいは一切お断りのヘンクツ男だったので、それらの有名人たちとも、とりわけ親交がなかったのダ。

 一時、「テレビ文化」とか「コマーシャル文化」などと過大にチヤホヤされ、「広告作家」とか「コマーシャル・アーチスト」ともてはやされたこともあるが、最近はそんなコトバは耳にしない。

 そういえば、広告業界で「コピーライター」を名乗っていた者たちの中には、「作家」をめざした者は多い。
 コピーライター業といえば、文字を並べる。文章らしきものを操る……一見「作家業」に見える仕事だ。
 いや、現在の「放送作家」と称する人たちの中にも、「作家」という2文字にアコガレている人は少なくないはずだ。
 最近、たまたまおつきあいをすることになった広告業界の者の中にも、シャーシャーと「作家」と自称しているのがいる。まるでそれらしい実績も見当たらないのだが、社交の場などでも、まあ、ヌケヌケと「作家」と自称していた。
 「作家」そのものが、若い女の子をたぶらかしたり、はたまた「オレオレ詐欺」をやらかすわけではないから、「ま、いいか」なのだが、こちとら、「そのハシクレ」としては何だか、尻がムズムズするようなハズカシさを感じたりするね。
 要するにアレは、劣等意識のウラ返しなんだろうねぇ。(次回につづく)


NONALNUM-3237392D333931CAFCC1F7BAEEB2C8BBFEC2E5

放送作家(筆名本庄一郎)時代の本庄慧一郎



NONALNUM-3237392D333931A5B3A5D4A1BCA5E9A5A4A5BFA1BCBBFEC2E5

コピーライター時代(本名望田市郎)の頃の本庄慧一郎

— posted by 本庄慧一郎 at 11:14 am  

「社会&芸能・つれづれ愚差」第278回(通算390回)

カオ・かお・顔(自分をタナに上げて)

 「顔とは、オートメーション化された人相書である」なんて言ってみる。
 江戸の時代から、「人相書」は犯人捜査にはきわめて有効なアイテムだった。
***

 「死ぬほど好き」とか、「命がけの恋」とか、これも江戸時代も現代も変わりはない。のぼせ上がった男女の必須キーワードだ。けれど、やっぱり、現代の恋愛は万事にお軽く、お手軽である。

***

 「顔を見るのもイヤ」「同じ部屋の空気を呼吸するのもゴメン」という「NO!」がある。
 しかも、そのはじめは誰やらにムリヤリ押しつけられたわけでもない。
 お互いが勝手にのぼせ上がって、勝手にズクズクになって、そのまま「ハイ、サヨナラ」と言えばいいのに、とんでもない修羅場を演じたりする者も少なくない。

***

 近頃の若いモンの恋の始まりなんて例外なく「見た眼」だから一緒に暮らすようになったトタンに「性格の不一致」というコトになる。
 1+1=2なんて計算以上にカンタンに出る答えだよね。

***

 「顔も見たくない」というヤツは、いまの社会にはウヨウヨしてるよネ。
 見るからに信用できないヤツなんて、政治界から一般社会のあちこちにウヨウヨしているもンね。
 え? ダレのこと? ヒントなしでお分かりになるでしょうが!

***

 たとえば――歴代のソーリ大臣を思い浮かべてみる。ノダ・カン・ハトヤマ・アソー・フクダ・アベ・コイズミ?
 それに都や市のリーダーであるイシハラ・ハシモト、そして……もういいや。

***

 役者や俳優業というものは、ご本人の実質とはムカンケイに演目に従って悪者・悪党を演じ分ける。
 でもこの場合はたいてい、その役柄とは無関係にその役者や俳優さん、その人の性格や性質が文句なしに良質だった――とは過去の例ではいえた。

***

 では、最近は――?
 正直申しあげると、それまでつましく貧しく、謙虚だった者が、たまたま「有名人」になったトタンに、イヤな野郎に成り下がる例は……そう枚挙にいとまがない。
 全部が全部とは言わないが、いわゆる「新劇出身」の者の中には、テレビなどで稼いで、いわゆる「糟糠の妻」(貧しい時代に苦労を共にした妻)をポイと捨てて新しい女性に乗り換えるヤツなんているぜ。しかも、ラブホテルみたいな部屋に住まわせたりして……さ。
 そういうカサブタみたいヤツって、テレビ・ゲーノー界に……やめた!
 こんなことウダウダ書いている自分がイヤになるもンねぇ。反省!

***

 俳優地井武男さん(70歳)の告別式は2012年8月6日だった。
 その前の8月3日(金)、久しぶりに立ち寄った吉祥寺のヤキトリ屋いせやは公園店が改装のため休業中で大混雑していた。相席のテーブルで、あの「地井武男さん」(そっくりさん)と出会った。
 ご本人の許可を得て、スナップを撮らせてもらった。
 

NONALNUM-3237382D333930A5C1A5A4A4B5A4F3A1A9

NONALNUM-3237382D333930CBB9BBD2

 本庄クンのキャップコレクションの一部

 あらためて地井さんのご冥福をお祈りしています。

— posted by 本庄慧一郎 at 01:17 pm  

「社会&芸能・つれづれ愚差」第277回(通算389回)

「広告作家」「放送作家」? 「サッカ・サッカク・サンカク・シカク」!

 自称「ムスコ」や「セガレ」になりすまして、嘘八百を並べ立て、「親ごころ」を悪用して詐欺を働くのが「オレオレ詐欺」。
 近頃、元広告業の、というより広告業界でのコピーライターやその周辺の者で「作家」を自称する者に、しばしば出会う。

 「作家」を自称しても、それが即、犯罪にはならないが、しかしヨコシマな目的で繁華街をウロウロしているヤカラがよくいるが、そんな「タレントクラブ社長」とか「モデルクラブ・マネージャー」的なうさん臭さがつきまとうのは否めない。
 マスコミ・芸能のフィールドにはこの種の危うい「自称」は枚挙にいとまがない。

***
 小生は、昭和40年代初めに、広告代理店第一企画(後に旭通と合併してアサツーDKになった)に入社。その気でコピーライターをめざした。
 そして3年後には独立――フリーとして電通・博報堂をはじめ、さまざまな広告代理店・CM制作プロダクションと仕事をした。
 その時代のコピーライター周辺には、かの阿久悠氏や五木寛之氏、また野坂昭如氏や伊集院静氏、そして青島幸男氏など、そうそう、あの林真理子氏もコピーライターを名乗っていたが、のちに作家として、また作詞家として名を成すツワモノが実在した。

 当時、DにもHにもその他の広告業や制作プロダクションにもコピーライターの名刺を振り回す者、またやたら得意顔でカッポするコピーライター諸氏はワンサといた――というより無数にうごめいていたなぁ。
 さらに、その中のかなりの多くの者が、「いまの仕事はホンの腰掛けさ」「そのうちに……見てろよ」といったジェスチャーを折りにふれて見せていた――。

***
 だいたい、「作家」なんて職業は、「自称」するのはとりあえずかまわない。法にも抵触しないし、直接社会に害を及ぼすこともない。
 それ自身が「犯罪」ではないから放っとくより致し方ない。

 でもね、「画家」や「彫刻家」「俳人」「歌人」、はたまた「詩人」同様に、そのギョーカイやまた関連ギョーカイの者たち第3者が、その肩書きをすんなり慣用語として日常的に使ってくれなければ、結果として「実質」がまるで伴っていない、または「ホントは素人」といったコトになると思う。

***
 全国にあまた存在する「文学同人誌」などには、すでに「作家」と称しても遜色のない実力をもった者が大勢いるはずだが、まず彼らはみずから堂々と「作家」と名乗るようなアサハカなことはしないようだ。
 その理由は、「生活費は他の職業で稼いでいる」にあると考えるからだろう。
 広告業界におけるコピーライターには、それなりの才能も努力も必要だ。しかし、その経験がそのまま「作家業」にイコールするわけではない。
 したがって、いくら広告というフィールドで活躍したからといって、そのまま名実ともに「作家」にイコールするわけがない。

 「放送作家」にも同様のことがいえるはずだ。つまり、「放送作家」の4文字から「放送」の2文字をカットして、シンプルに「作家」を名乗るにはそれなりの努力や才能が要るということだ。

***
「ケータイ化する日本語」(大修館書店)など、新しいメディアと日本語の関連を論じたオモシロイ本もいくつか出ているが。
「ブログ」や「ツイッター」などの文章(?)に熟練したからといって、本来の「言語力」や「文章力」や「表現力」のエキスパートになれるハズがないのは当然のことだ。

 むしろ、極度に簡略化したハンチクな言語で相互理解を得た――といったアサハカな諒解や納得など、その他の分野では結局、まるで役に立たないと思う。
 その一方でツイッターなどのニューメディアの伝播力が、原発問題をはじめとする政治的・社会的に重要な課題の認識を大きく拡大するために効率よく役立っていることをフルに評価している。

***

 すでに、根っから信じられる言葉やメッセージとは無縁の「おしゃべりロボット化」した政治家などがウヨウヨしているが、彼らもまた「別種・ケータイ化したハレンチ・エイリアン」だと言っていいと思う。

***
 そういえば――
 以前はしばしば「テレビ文化」とか「コマーシャル文化」とかいったコトバを見かけたし、耳にもしたが、近頃はとんと使用されなくなった。
 「Culture」というワードをいくら拡大解釈しても、現在の「テレビ」や「コマーシャル」には、その気配もうかがえないということか。
 まったく、ナサケナイねぇ!としか言いようがない。


NONALNUM-313030A5B1A5A4A4C1A4E3A4F3A5B5A5A4A5F3C6FEA4EA

           ケイちゃんの目  ↓

とうきょうカルイザワ/石神井三宝寺池周辺

NONALNUM-3237372D333839C0DAA4EAB3F4

NONALNUM-3237372D333839CCDAC6BB

NONALNUM-3237372D333839B2D6


涼風や 寄らば大樹の 花一輪  ―― 一露






睦組公演『炎と愛のフィナーレ――あるレビュー劇場(ごや)の1945』 本チラシができあがりました↓


NONALNUM-CBD3C1C828BEAEA1CBA5D5A5E9A5A4A5E4A1BCC9BD

NONALNUM-CBD3C1C828BEAEA1CBA5D5A5E9A5A4A5E4A1BCCEA2

— posted by 本庄慧一郎 at 11:45 am  


*** お知らせ ***
自主CDを制作
21.1:130:128:0:0::center:0:1::
平和を願う歌
「鳥になれたらいいね」
総合プロデュース:本庄慧一郎
<< 2012.8 >>
SMTWTFS
   123 4
567891011
121314151617 18
192021222324 25
2627282930 31 
 
※ ご注意 ※このウェブサイトに掲載されている、すべてのコンテンツの著作権は(有)望田企画室ににあります。
著作権者の許可無く、本サイト内の全てのコンテンツ・著作物について、無断での使用・転載・加工は一切お断りしております。