●2014年11月28日。菅原文太さん没。享年81歳。
高倉健さんを「追いかけるような」訃報だった。
健さんとの思い出を綴った文章の中で、文太さんに書き下ろした歌『望郷』のこと にふれた。
●まだ文太さんがファッションモデルもやっていた頃(映画スターになる直前?)、新宿厚生年金会館(当時)近くのバーで何度も出会っていた。
いや、カウンターの隣の席で同じ時間を過ごした。(おサケに強かった)
●その後(1988年頃)、長いおつきあいの作曲家の石田勝範さん(映画『大奥』をはじめ、テレビドラマの劇伴など作品多数手がけている。それに小生の企画・プロデュース・作詞のCDアルバム『平和を願う歌』のうち『名もない花』の作曲もしていただいた)から、「菅原文太さんの歌を作詞して」と電話があった。
「SONYからシングル盤を出すのだけど、2曲用意したうちの1曲を文太さんとしては、どうしても気に入らなくて」というコトだった。
●その曲が、「他人の女房に惚れて、というド演歌みたいなのがイヤで」という理由だった。
それで、急いで『望郷子守唄』(『望郷』に改題)を作詞して、文太さんが快く歌った。
小生はあえて「せりふ」を入れた歌詞を書いた。
『この世は、焼きたてのパンじゃない。あたたくもないし、やさしくもない』
このセリフは「さすが!」というテイストで「文太さんならでは」だった。
●そのおサケの席で「ボクの物書き業の師匠は、劇作家だったムーランルージュ新宿座出身の叔父の小沢不二夫と、もうひとり、その叔父と親しかった劇作家の三好十郎さんです」と話した。
●すると、文太さんが「オレの親父と三好十郎さんはとても親しかった。なにしろ初台では、隣り同士で住んでいたんだから」。
文太さんの父上も絵を描いていて、三好十郎さんも生涯を通じて絵にこだわっていた。(戯曲『ゴッホ小伝/炎の人』は文字どおりの名作だ)
●その後、文太さんのお父上狭間二郎さんから、三好十郎さんに関してのことを綴った長文のお手紙を頂いた。だが、何度か仕事場を移転しているうちに、そのお手紙を紛失してしまった!
●いわゆる「ゲーノー界の有名人」と仕事をしたことは多い。でも小生はいつも一定の距離をおいてきた。
仕事が済めば、さっさと忘れてしまう人がいた。また、たやすく忘れられない人もいた。高倉健さん、菅原文太さん、そして……。
●そういえば、映画『トラック野郎』で文太さんとコンビを組んだ愛川欽也さんも、ごく近くにいた人だったけど……。
●12月6日(土)/テレビ朝日での再放送の『わたしのグランパ』を再見した。
文太さんって、ああいう物語のああいう役を演じてもいいなぁ。うまいなぁ。
でも、ストーリーが(とりわけ後半)いままでの文太さんにやたら媚びたような展開になって――それがマイナスしてた。(ああいうのってヒイキの引き倒しというのかなぁ)
●高倉健さんも菅原文太さんも、ゲーノー界のスターの座に長い間「君臨」しながらも、「自己」というものをまっとうに大切にした――「人生の達人」でした。
●あらためて――
高倉健さん、菅原文太さんのご冥福をあらためてお祈りします。