現在の書斎は、古書店の倉庫のようで「創作の遊園地」になっている。
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俳優穂積隆信さん、田中信夫さんを悼む。
●穂積隆信さんとの出会い。
戦後、ラジオ局といえば、NHKの第1放送・第2放送しかなかった。いや、外国語(英語)のFENがあった。
1945(昭和20)年――大東亜戦争といわれた「国の暴走」は米軍の空襲激化で日本国全体が右往左往していた。
昭和20年4月13日の空襲で北区滝野川の自宅は全焼し、父親(母親は前年に病死)と弟とボクは、必死に激しい爆撃を逃れて――なんとか生き延びた。
「特攻隊志願」しか頭になかった軍国少年は同8月15日の「敗戦」で覚醒した。
亡母の兄弟たちが、B級といわれた「大都」という映画会社に監督、脚本家、カメラマン、監督助手としていて……その影響大で「もの書き業」でと熱望した。
その後、ひたすら(それなりの)勉強、修練に努めて……とにかく戦後の「民間放送時代」を迎えた。
1959(昭和34)年、日本放送作家教会が発足。
「キャリア――作品、執筆経験のある者」という資格審査をクリアして「会員」になった。
筆名本庄一郎とした。(本庄は現埼玉県本庄市――望田家の先祖は本庄市旧中山道沿いで手広く「マユの仲買商」を営んでいた)父親をよろこばせる筆名であった。
(昭和34年5月18日の産經新聞より)
穂積さんとのラジオ番組は、思い出ぶかいものだ。ニッポン放送の番組『マスコット坊や』。そして奥さんの女優北里深雪さんとも、TBSラジオの番組『お早う参ちゃんですよ』の企画、台本を書いて好評を得た。
民放のテレビ放送スタート時(1953年)は、NHK放送劇団の人たち以外に、いわゆるタレントと称する者はなく、放送作家本庄一郎としては、もっぱら新劇系の俳優を起用した。
演劇の基礎を身につけている人たちにせっせと声をかけた。
彼らも(生活費稼ぎに懸命で)マジメに責任を全うしてくれた。
民放ラジオ時代の「ラジオ」は、まじめで質も高かった。
「フリートーク」とやらが当然になって、やがてボクはそれまでの生活を支えてくれたラジオを捨てた。
その後、フジテレビ開局時の試験放送から脚本を書いたが、そのテレビの制作現場からもイヤ気がさして離脱した。
あの頃、おつきあいしていた俳優たちになじみが多い。
小沢昭一さんも逝ったし、テレビ、ラジオ、CM専業時代(1965年〜1990年頃)にご一緒した田中信夫さんなども、忘れ難い人だった。
「人生100年時代」とか――現在、著作物の新旧作品の電子書籍化に全力で取り組んでいる。
「もの書き業」の出発時にご一緒した人たちの訃報には、とりわけ心が痛む。合掌。
街角の記憶(神田駅周辺)
各書店の余美太伊堂文庫のページへとびます。

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