「ニッポンの芸能人」シリーズ52
2006/4/21
過剰なコマーシャルの不快と不信。
最近のテレビ番組のコマーシャルの分量がやたら多いと感じる。
もともとCM・広告業界で働いていた者だし、ラジオ・テレビコマーシャルも、それこそゲンナリするほど制作(企画・コピーライティング等)し、それを生業としてきた。(いまは、まったく無縁になって、セイセイした!)
当然、ラジオでもテレビでも提供番組のコマーシャル枠や、またステーション・ブレークと称する番組と番組の間のコマーシャル・タイムの放送規定があったのを知っている。
が、最近、ぼんやり眺めていて「やたらCMばかりじゃないか」とイライラすること、しばしばだ。局はルール無視をやっていると思われる。
しかも、政治や社会や、番組そものとはまるで水と油の、ほとんど無分別・無思慮な、というよりひたすら得手勝手な喚きコマーシャルが横行して恥じるところがない。
中でも生命保険会社のコマーシャルの多いことは異常ともいえる。
それぞれの「商品」の特長やメリットもさることながら、あんなに大量のコマーシャルの放送料をまともに支払って採算が採れるのか? はなはだ疑問だね。
すでに「損保ジャパン」なる保険会社の280人の社員が、与えられた契約目標の達成のため、自分で保険料の立て替えをしていた。しかもその違法の事実を会社が隠蔽していたことが発覚し、結果520人の処分をしたとか。
ユーザーの一人であるぼくは、「いつか採算割れして、保険会社が約款をいきなり変更するか、支払停止になるのでは」と不安になる。
消費者金融のうさん臭さとテレビ局の責任。
消費者金融が、いわゆる「サラ金」とよばれていた頃、テレビ局はその業種のコマーシャルを受け付けなかった。が、いつのまにか堂々と放送するようになった。
「悪しき成果主義」がバッコするのは保険会社ばかりではない。
広告代理店もテレビ局等も、企業体質・経営手法に大差ない。
アイフル等の消費者金融のコマーシャルのほとんどすべての表現はあざといキレイ事に終始している。しかも豆粒のような文字で一瞬に表示される約款は、あきらかに違法、もしくはそれに近い金利になっている。
アイフルにおける借金取立て役の言動や行為を報道番組で観たが、怒号と脅迫に終始する暴力団絡みの闇金融そのままだ。
精神科医の斉藤学氏はすでに、広告主とそのコマーシャルとテレビ局とに怒りの発言をくり返し延べているが、まったく肚立たしい限りだ。
イージーに借金する若者たちの哀れ。
全国の地裁・簡裁に「過払い利息の返還を求める」という人たちがン百人もいるというが、もともとイージーに借金する愚かしく軽率な人間も大ぜいいるのだ。
借りた金は約束の期限までに利子を付けて返す、これは、やはり実行せざるを得ないはず――いま江戸時代の小説を書いているので、当時の高利貸しとか、町人相手の強欲金貸しの実体をつぶさに調べる。
リストラを食った武士が浪人となり、生活費に困ったあげく金貸のワルに罠を仕掛けられて、女房や娘を女郎に売りとばすハメになったり、また、町角で売春させてその用心棒になり下がるなどという例はいくらもある。
どんな理由にしろ、イージーに借金する人間は自滅するね。(やむをえない理由があったとしても、相手が悪いのだ!)
いや、ロクに努力もせずにしこたまあぶく銭を得た人間も、やはりいずれ潰れる。
ニッポンのゲーノー界にも「虚の金」にキリキリ舞いをして、哀れに自滅していく者は多い。テレビのブラウン管にウヨウヨしているではないか。
「人生には二つの悲劇がある。一つは欲望を得ないことであり、もう一つは、欲望を獲得することである」パーナード・ショー。
その二つのいずれも捉われずに、分相応に暮らすということは難しいが、それこそが「健全に暮らす」ための必須条件といえるのではないだろうか。
— posted by 本庄慧一郎 at 05:01 pm
「ニッポンの芸能人」シリーズ51
2006/4/14
結婚式の披露宴はカラオケ大会かね。
ゲーノー人のド派手な結婚披露宴というのは、毎度「どういうつもり?」と呆れる。
松平健などといういいトシをしたオジサンが再婚したが、その宴席で、山本譲二という演歌歌手が、自分の持ち歌「みちのくひとり旅」を熱唱(!)したという。
♪ここでいっしょに死ねたらいいね〜 で始まる歌だ。
お祝いの席では、どんな理由があろうとも「死」なんてコトバのある歌や文言はさし控えるのが常識と思うが、そんなことを考えるのはもう不要なのだろう。
ずっと以前、結婚式の司会を頼まれたことがある。
たしか昭和44年4月4日でやたら「シ」がゾロゾロ並んだ。そこで親父に「こういう場合はどうしたらいいの?」と訊いた。そうしたら「シアワセの二つ重ねの日……とも言えばいいんじゃないか」と即答してくれた。
で、そのとおりにしゃべったら、地方から来られたお嫁さんのご親類の皆さんに大変おほめを頂いた。
無神経なのは若者ばかりじゃない。
マスコミ関係の仕事だったから、ずいぶんド派手な宴会やパーティにつき合わされた。
ある結婚式の披露宴では、某銀行のおエライさんであるオジンがスピーチに立った。と、このオジサン「お祝いの気持ちを託して一曲歌います」とのたまわった。
民謡には祝い歌がいろいろある。
たとえば?「いわき目出度節」(福島)とか「秋田大黒舞」とか、そうだ「秋田長持唄」なんかもいいね。あたりさわりのない定番では「黒田節」なんてのもあるけど。
しかし、この時のオジンは、何をどうカン違いしたのか「よこはま・たそがれ」を絶唱したのだ。♪あの人は、行って行ってしまった あの人は行って行ってしまった、もう帰らない〜
列席していたご一同様は熱烈に拍手したね。全員でギャグやっていた。(この五木ひろしのヒット曲は、レコード発売前のTBSの番組で作曲の平尾昌晃さんをインタビューしてギターの弾き語りで聴いたが、これは絶品だったが)
非常識はハレンチと同義語。
ゲーノー界には、「有名人」という名の非常識人がウヨウヨしている。
虚飾と虚名のステージに祭り上げられた者たちはほどんど例外なくおのれの人生を腐らせる。(ホリエとかナガタとかも同類だ)
それにしても、はるばると見上げるようなウェディングケーキを見せびらかしたり、ウンザリするほどの有象無象をかき集めてド派手な結婚式を挙げたら、ちゃんとまじめにお二人仲良く暮らしてほしい。
「二人の価値観の違いが――」とか「すれ違いでじっくり話をすることもなく――」とか、「それぞれの思いを大切にしたいから――」とか、ワケはそれなりにあるんだろうけど。
あの山本譲二とか銀行のオジンはやっぱりギャグかましたのかなあ。
となると「非常識はハレンチと同義語」はテッカイして、「非常識は大ギャグの裏返し」にでも変えますか。
— posted by 本庄慧一郎 at 05:02 pm
「ニッポンの芸能人」シリーズ50
2006/4/7
アメリカと韓国の歌手の日本の童謡唱歌。
「歌は世につれ、世は歌につれ」とは、ステレオタイプのテレビ番組のうたい文句だ。
現在のテレビでの音楽番組でオトナが快く楽しめる番組は稀少だが、日曜日朝9時の「新題名のない音楽会」には好感をもっている。
4月2日はアメリカのスーザン・オズボーンという女性歌手と韓国のRyuという男性歌手が、日本の童謡唱歌をうたった。
そのまじめで品性のある表現力が十分に楽しめた。
彼らは日本人がとくに親しみなじんだ歌曲をうたったのだが、日本語の歌詞を美しい発音と、そして悪ふざけや媚びのない二人の歌唱に会場の聴衆は惜しみない拍手を送っていた。
よく日本の人気歌手が童謡唱歌をうたう企画があるが、たいていは手垢のついたクセや浅はかなパフォーマンスでただ不快にさせられる。
若者たちに人気のある(らしい)桑田ナニガシなどは「たかが歌詞じゃねぇか」などと「歌のコトバ」をないがしろにして得意になっているが、スーザン・オズボーンやRyuの謙虚さや品性のカケラも持ち合わせないようだ。
(蛇足――ただしこの番組、内容はまあいいのだが、CMの出来の悪いのには呆れかえる! ホントにセンスを疑うね)
若者たちの歌はしょせんド演歌だ。
現在、いわゆる「演歌」という種類の楽曲はまるで売れないらしい。
あの種の歌の内容はまったくカビが生えたような内容のものばかりだ。
捨てられてメソメソと酒を呑む女か、その逆のだらしない男の場合か。なんにしても昔ふうにじめついた男と女の泥くさいベタベタ物語なのだ。
では、若者のオリジナル曲はというと、さすがに「人妻」だの「不倫」だのというモチーフはないが、だいたい「別れ」にまるわるセンチメンタル・ソングが大半だ。
その点、曲のファッションは今ふうでも、テーマやモチーフはド演歌と大同小異でうんざりする。
おまけに未熟な歌唱力ゆえに歌のコトバが鮮明に伝わってこない。
テレビのスーパーがなければ、その内容はほとんど理解不能だ。
だからどれを観ても聴いても、ブラウン管の中だけで、つまり「自分たちだけで完結してしまっていて」送り手であるはずの彼らのエモ−ションはまるで視聴者であるわれわれに伝わってこない。
こんな「ハンパな歌」に慣れてしまうと、たちまち「音楽センス馬鹿」になる。
「ミュ−ジック・フェア」という番組の場合。
この番組は長寿番組だ。ずっと好感をもっていた。が、最近、企画や内容に違和感をもってきた。
3月中には何十周年だかの記念番組(大阪ホールでのライブ公禄)をかいま観たが、出演者がこぞって悪ハシャギしているだけで、テレビ視聴者の存在を忘れているような無神経な出来だった。
とりわけ、いいトシをした歌手やジャズの弾き語りのオバサンたちの図にのりようは、ただ醜悪だった。
あえて我田引水! ということで。
06年3月29日新宿文化センター大ホールで「新宿平和都市宣言20周年記念」と題する新宿区主催のイベントがあった。
ぼくは昨年来、「平和を願う歌」を作詞して、親しい友人・有志の協力で楽曲化し、なんとかCD化する作業を続けてきた。
そのシリーズで6編の作詞(このHPのエッセイパ−ト2、第5回でも公開している)のうちの「鳥になれたらいいね」(作曲 園田容子)を新谷のり子さんがこの催してうたってくれた。
新谷のり子さんといえば「フランシーヌの場合」(1969年)という大ヒット曲があるが、ぼくは正直いって、いまの新谷さんとお会いし、そのステージでの歌唱に触れて素直に魅かれた。素敵だった。オトナの鑑賞にふさわしいものになっているということだ。(ぼくの作詞でなくともそう言える)
彼女の平和にたいする熱い思いの語りくちも、歌そのものにも、「大きく成長した」魅力があった。
いいトシをして悪ハシャギせず、コトバをないがしろにしない歌い手や作曲家とじっくり腰をすえ、オトナの人たちに耳を傾けてもらえる楽曲を創っていきたいとあらためて意欲している。
— posted by 本庄慧一郎 at 05:03 pm
「ニッポンの芸能人」シリーズ49
2006/3/31
ビートルズを聴いたあとでチャンバラ小説を書く。
ぼくは「放送作家」としてスタートしたので、ラジオ最盛期は、歌謡曲・ロック・ジャズ・フォークなどなどを音源とした番組をゲンナリするほど担当した。
ぜったい忘れられないのは東芝EMIの番組の構成の仕事で、ビートルズの曲を片っ端から紹介したこと。
彼らが訪日しての武道館ライブを取材目的で観て、聴いていること(昭和41(1966)年6月)。
2階正面の席(1階は、円型ステージだけだった)の近辺には三島由起夫など有名人の顔がずらりと並んでいた。
いまでも、ビートルズのレコードやCDを折りにふれて聴く。(時代小説作家でいまどきビートルズを愛聴する者がいるか?)
そういえば、あの当時、仲の良かった東芝EMI宣伝部の大谷信夫さんとのかかわりでビートルズに深入りもしたし、ユニークな「帰ってきたヨッパライ」「イムジン川」などのPRも手伝った。(同じく東芝EMI提供の「ポップ&ポップス」という番組があり、構成を担当していたが、のちに大谷さんはこの番組のスタッフだった庄司邦子さんと結婚することになり仲人をつとめた)
ビートルズ&美空ひばり。
この06年3月、歌手美空ひばりの追悼特集や、彼女をメーンにしたテレビ番組をいくつか観た。
ぼくのサウンド・コレクションは、ビートルズと美空ひばりが同居している。
さらに、コピーライター時代、CMソングの企画・作詞・制作などでご一緒したデューク・エイセスはいろいろあり、ダーク・ダックスや、フランク永井、尾崎紀代彦……、そして小林幸子、北原ミレイ、上条恒彦……、そう!菅原文太兄ィのぼくの作詞のせりふ入りの名唱「望郷」など、万華鏡のようなバラエティにとんだコレクションだ。
まあ、それはそれとしても、これとは別に美空ひばりには格別の思い入れがある。
というのも、ぼくの師であり叔父である劇作家小沢不二夫がかの「リンゴ追分」を作詞しているからだ。
以下、「朝日新聞学芸部編・戦後芸能史物語」(朝日選書)から引用する。
「美空ひばり、昭和23年10月デビュー。(略)スタートはあまり幸運ではなかったが東京の日劇小劇場出演を機に、芸名を美空ひばりと変え、24年、東横映画に初出演、その年3本目の松竹映画「踊る竜宮城」で初のオリジナル曲「河童のブギウギ」を歌い(略)、以後「悲しき口笛」(昭和24年)を経て「リンゴ追分」(昭和27年)がひばりを大歌手・大スターにのし上げる。」
早逝した叔父小沢不二夫の七回忌には、「リンゴ追分」同様、名曲とうたわれる「津軽のふるさと」の作曲家米山正夫氏が来て下さり、ご一緒に撮った記念写真がある。この時、美空ひばりさんの乗ったクルマが交通渋滞で大きく遅延しなければ、ご一緒のシャシンが撮れたのだが。
「美空ひばりアルバム」そして最近の「リンゴ追分コレクション」のCDともども、これまた折にふれて楽しむ。
ぼくのサウンド・コレクションの〔ミス・マッチ〕は、ぼくの人生の経歴を物語っているのである。
— posted by 本庄慧一郎 at 05:03 pm
「ニッポンの芸能人」シリーズ48
2006/3/24
芸能プロデューサー麻生芳伸さんの訃報。
06年3月19日(日)、中野サンプラザの13Fスカイルームで「麻生芳伸さんを偲ぶ会」あった。
麻生さんは芸能プロデューサーで、現在、書店に並んでいる「落語百選」(4巻)、「落語特選」(2巻)をはじめ、さまざまなが芸能関係の著書がある。
プロデューサーとしてのあれこれの仕事の中でも、津軽三味線の高橋竹山さんをメジャーにしたことは特記すべきだろう。
05年夏、ぼくは落語の「寿限無」のようにやたら長ったらしい名の疾病に取り憑かれた。「ギラン・パレー症候群亜型ミラー・フィシャー症候群」という。
地獄の底を這いずり回るような体験を強いられたが、担当医師の好判断、リハビリ療法士の皆さんの指導、そして家族のフォローとで現在は〔完全復活〕したが、麻生さんはぼくの「外出OK」を急がせるようにして、中野沼袋の呉服商、山田屋社長・西村重博さんに紹介してくれた。山田屋さんのお宅には100人も収容できる日本座敷と本格的な桧舞台があった。(別にこれも立派な音楽ホールもある)
ぼくはさっそく桂小金治師匠をご紹介した。師匠は本年80歳を迎えたが、「噺家としての高座に再挑戦!」に情熱を燃やしている。
さっそく麻生さんプロデュースで、山田屋さんのお座敷で小金治師匠の独演会を――という企画が具体化されることになった。
そしてぼくの念願である「時代ものの新作落語を」も実現に一歩近づいた。
05年11月22日、横浜にぎわい座に出演した小金治師匠を麻生さん、そしてワイフの3人で聴きにいった。
が、それから1ヶ月と9日後に、麻生さんはガンで急逝したのだ。
岡部伊都子さんへの麻生さんの思い。
随筆家岡部伊都子さん(83)へ、麻生さんはずっと思いをつないできた。05年3月には大沼洸著「岡部伊都子へのめぐる想ひ・櫻レクイエム」を麻生さんみずからの手で出版している。
ぼくが放送作家として仕事を始めたころ(1956――昭和31年)、ラジオ番組で「400字の言葉」というのがあり、よく耳を傾けていた。岡部さんが書かれていたのだ。当時のエッセイ集「おむすびの味」なども買い求めていた。書庫のどこかにあるはずだ。
その岡部さんは、戦時中、フィアンセの木村邦夫さんに「この戦争は間違いやと思うてる。僕は天皇陛下ために死にたくない」と言われ、岡部さんはそのとき「わたしだったら喜んで死ぬけど」と答えたということを書きしるしている。その後、木村さんは沖縄で砲弾で両足を失い、自決した。
岡部さんは以来、自分を「加害の女」と称して自責の念を背負って生きてきた。その岡部さんははっきりと「戦争と差別が憎い」「(憲法)九条が危ういな。九条を守ることが憲法やがな」とおっしゃる。
人と人の縁(えにし)のこと。
現在ご活躍中の「辛口評論家」、佐高信さんがおられる。ずっと以前ぼくが制作担当したラジオ番組にゲスト出演していただいたことがある。
この佐高さんが、岡部さんと親交があることを知った。
佐高さんには沢山の著書があるが、政治・経済から文芸・テレビ・芸能にいたるまで対象とする分野は広い。その視点、論旨、判断、そして結論に共感し、拍手する。(ちなみに最近再読した本「佐高信の言語道断」「佐高信・喜怒哀楽のうた」(以上徳間文庫)「佐高信・タレント文化人・筆刀両断」(ちくま文庫)「田原総一郎よ驕るなかれ」(毎日新聞社)をしるす。ぜひ、お読み下さい)
それにしても、麻生芳伸さん、岡部伊都子さん、佐高信さんとのえにしをあらためて思う。
そう、「偲ぶ会」には、小沢昭一さん、伊東四郎さんのお花が飾られていた。そして、いまミュージカルの舞台等で大活躍の俳優・歌手上条恒彦さんと久しぶりに再会した。上条さんとはTBSラジオで「上条恒彦、そして歌」(だったと思う)という資生堂提供の番組をご一緒した。
ぼくは「献盃」のごあいさつをとのいきなりのご指名についオロオロしたが、しめくくりは「再見!」(チャイチェン)という言葉でしめくくった。
— posted by 本庄慧一郎 at 05:04 pm