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「ニッポンの芸能人」シリーズ65
2006/7/21
なるべく楽しい話を書きたいが…
前回飲酒運転での信号無視という中村獅童のことを書いた。
そしてエラソーに「酒酔い運転や麻薬などに関しては、ゲ−ノ−界と長く関わってきたぼくは、ずいぶん危ない人間を見てきた。そして、これからも脱線する人間はあとを断たないだろうと予告する」とヘタな見得をきったりした。
さて今週は――と、仕事机にすわったのだが、あの吉本興業のアチャラカ・タレントの「未成年子女との淫行事件」(?)である。
実子を殺す親がいる。実の親を殺す子がいる。
血を分けあった家族もろとも家に放火する者もいる。
生いたちや過去に、また現在の環境のなかにどんないきさつや事情があったにせよ、殺人及びそのための放火などが正当化されることはない。
ひるがえって、ただ仲間うちのカラ騒ぎ、悪ふざけでしかない現行テレビのバラエティ番組や若者向けのドラマ(といえるのかね?)などでチヤホヤされた青臭いタレントが脱線するのはむしろアタリマエなのだ。
酒を呑ましてそのあげくの「婦女暴行」は例を挙げたらキリがない。
と書いてきて、やっぱり、シンドラ−社とやらのエレベーター、トヨタ自動車のリコ−ル車、そしてパロマのガス湯沸器などの欠陥商品のことを連想する。
これらの「商品」の事故はすべて人命に直結する。糾弾されて当然だ。
しかし、現在のテレビに横行する「欠陥タレント」は、じかに人命に関わらないように見えるが、実はとんでもない毒ガスをばらまいているのだ。
朝の読書タイムのこと
早朝4時に新聞を精読する。さまざまな記事にシャープに反応したいと努めながら。靖国神社に対する昭和天皇のお気持ちや側近の者のメモなど、無関心ではいられない。
いま、生活のための仕事として連日、時代小説を書いているが、きょう現在で文庫書き下ろし3冊の予約があり、ボンヤリしているヒマはない。
けれどそれはそれとして、自主企画としてこのところ昭和10年代、さらに昭和20年代の敗戦前後の物語をもせっせと書いている。
当然、昭和史のデータと首っぴきになる、したがって昭和天皇の当時の心情やお心についてまじめに考えるのだ。
そのいっぽうで、朝のいっとき、芸能に関する楽しい本の頁もくる。
東京新聞の連載コラムの演芸評論家、矢野誠一さんの本はあれこれ書棚にあるが、枕辺には畏友ではなく「畏先輩」の小沢昭一さんの新エッセイ集「寄席の世界」「老いらくの花」「新宿末広亭十夜」などに、故人になられた劇作家阿木翁助さんの「しみる言葉」もある。さらにまじめで真摯な芸能史研究家本地陽彦さんの「永遠の処女・原節子伝説」と、アホなオチャラケタレントは無関係の気持ちのいいテイストを味わう早朝読書タイムを楽しむ。
そうそう今朝は矢野誠一さんの「酒と博打と喝采の日々」を再読、松竹大船の名バイプレイヤーだった三井弘次さんの項を玩味した。
三井弘次という役者は好きでした。アウトローっぽいその容姿で、小津安二郎、木下恵介、渋谷実作品、それに黒澤明が好んで使ったあのキャラクターは得難い価値があった。
ぼくもこの先輩と(共演は桂小金治師匠)のコンビのテレビのコメディの脚本を書いた。
あるおサケの席で「ホンやさん、こっちへおいでよ」と呼ばれて、「そのうち大船(松竹撮影所)においでよ。きっとだよ」と言われた。
このヒト、酒が良くなかった。矢野さんの本でも、そう書かれている。
事実、当時のテレビスタジオのリハ−サル中、ウィスキーのボトルを離さなかった。
そんな欠点をもちながら役者としての価値をおとしめることがなかった。
それにしても、もともとなにもないヤカラが、とにかくいまのゲ−ノ−界にのさばり過ぎている。
いや、どっちを向いてもヘンなの多いなあ。イヤになるよまったく。
(というわけで楽しいコトをと思いながらこの始末。スミマセン)
— posted by 本庄慧一郎 at 04:50 pm
「ニッポンの芸能人」シリーズ64
2006/7/14
ル−ル違反オン・パレード
中村獅童という歌舞伎俳優が、飲酒運転と信号無視の容疑で警察署に書類送検された。
取材記者に対する獅童の神妙にして幼稚な弁明にはただタメ息が出た。
あの萬屋(中村)錦之助の血すじという獅童はずっと以前から見知っていた。隼町の国立劇場での中高生向け歌舞伎お楽しみ会(?)のような催しの司会をやっているのを何度か観た。
国立劇場の素舞台に立って廻り舞台やセリなどの仕掛けを説明したり、ツケと演技のかかわりを紹介したり……好感をもっていた。
その後、あっというまに人気が出て、新装なった新橋演舞場での座長公演「丹下左膳」を観た。すでに「図にのっていて」その舞台の出来には口アングリ、1階の席だったがワイフともども途中で立った。
最近の獅童のことを歌舞伎の連中はどう思っていたのか知らぬが、暴走しはじめた人間をコントロール出来ないのは困ったものだ。
近頃、ル−ル違反という名の自己崩壊型軽卒人間が多い。
ああ、愚かしい軽ハズミ!
区立の中学校教師が女子更衣室を隠しビデオカメラで撮影しようとしたとか、修学旅行積立金をせっせと横領してた先生とか。女性新聞記者にチカン行為をした議員とか……あいかわらずルール違反野郎が続出している。
やたら「飛翔物体」とやらをぶっ放す国や軍隊や、ぼう大な国費を注ぎ込み、平和憲法をねじ曲げる行為を強行したりと、ひたすら危険なル−ル違反にも肚が立つ。
それと水谷建設とやらの企業経営者及びその責任者たちのほとんどドロボーのような金銭隠匿隠蔽事件と類似の企業犯罪のかずかず。
かと思えば大学の教授たちの公金である補助金の私的流用。ワセダの女性教授や、三鷹の国立天文台の教授などの例をみると、そのル−ル違反は浅ましく、いじましく恥ずかしい。
日銀のフクイという男の容姿には似合わない、そのル−ル違反に対する図々しい態度も特筆すべきだろう。
福祉予算を削り、医療制度を勝手に(与党多数のサンセイで)改悪し「格差もやむをえない」とうそぶきながら「ヤスクニ・ヤスクニ」と血迷うコイズミなる男も近隣外交を阻害する重大なル−ル違反者だ。
ゲ−ノ−人という欠陥人種たちの現在と今後
酒酔い運転や麻薬使用などに関しては、ゲ−ノー界と長く関わってきたぼくは、ずいぶん危ない人間を見てきた。
そして現在も、これからも脱線する人間はあとを断たないだろうと予告する。
そういえば、あのジダンという男も、ル−ル違反でミソをつけた。
そんな事態をわざと誘発しようとする奴もいる。でもやはり「グランドで頭突き」はルール違反であることには違いない。
イケナイものはイケない。ダメなものはダメなのですよね。
(でもね、頭突きはおろか、ぶん殴って蹴とばしてやりたい奴、あなたの周囲にいるでしょう? え? いない。あなたはずば抜けた人格者か、それともス−パ−鈍人間では――?)
— posted by 本庄慧一郎 at 04:51 pm
「ニッポンの芸能人」シリーズ63
2006/7/7
マキャベリズムという言葉
マキャベリズム――もともとはイタリアの政治家マキャベリ(1469〜1527)の政治家としての思想のことをいうのだが、転じて「道徳的・宗教的な理念より、権謀術策を駆使して諸事を処理しようとする主義」となるという意味で使われている。
あらためて例を挙げるのも気がひけるが、この言葉からホリエとかムラカミとか、最近話題のそのものズバリの人物がすぐ想起できるが、彼らのようにたやすくシッポを出さない者が政治及びそこにかかわる省庁の役人の中にワンサといる。また大手企業の中枢にもウヨウヨしていることもあって、スキャンダラスな事件やウンザリするような不祥事はあとを断たない。
彼らの権謀策術が破綻する以前の、ヌケヌケとした彼らの得意げな表情や行動を思い出す。おのれを冷静に客観視する常識人としての思考がまったく欠落している人間の得手勝手でゴーマンなことといったら! そう、現在、そのもっとも典型的ともいえる人物をひとり挙げるとすれば、やはり金日成か。
たまたま観たテレビドラマ2種
テポドン騒動のさなか、たまたまテレビで2種のドラマを観た。
フジテレビ7月5日昼の「危険なアネキ」(再放送)と同日のテレビ朝日夜の「羅生門」なる新番組。
前者は、大病院を舞台にした若い医師や看護師たちのはなし。
原作が劇画なのかマンガなのかは調べる気もなかったが、ひたすらオモシロク笑わせようとするストーリー、人物設定、そして出演者たちの演技と、加えてトータルの演出は、ただもう愚かしくアサハカなおふざけでしかなかった。
ぼくは昨年、「ギラン・バレ−症候群亜型ミラー・フィッシャー症候群」などという疾病に襲われた。十万人に一人とかいうこの病名も耳にしたことのない病は、一夜にして全身ボロ屑になる激しいもので、「痛い・苦しい・辛い」という地獄の底で呻吟した。が、担当医師の好判断と、看護師、リハビリ療法士の皆さんのおかげで、合計4ヶ月〜5ヶ月という治療・入院期間を2ヶ月に短縮して退院。即、自主トレーニングと自称して執筆活動を再開した。
その実体験からいえば、病院の医師や看護師、そしてスタッフの日々の真剣な活動ぶりは、ただ感謝と賞賛に値すると思っていた。
あのドラマの企画がどういう経緯で成り立ったのか知らないが、ただひたすら軽薄で浅慮で愚かしい人物造型には呆れ返るばかりだった。
「視聴率」を稼ぐためには手段を選ばないテレビ人種をあらためて嫌悪した。
あの種のドラマ(といえるのか?)を、病院という現場で働く皆さんはどう思っているのか知りたい。
刑事ドラマというもののこれから
テレビ朝日が自家メディアを臆面もなく利用しての新番組「羅生門」もなんとなく眺めた。
警察署だか刑事部屋だかのあの異常さはなんなのか。
そして、登場する人物たちのふんぷんと臭うキャラクター付けのあざとさ、おぞましさ。
伊東四朗といったずっと好感をもってきた俳優にも、落胆をせざるを得ない。
ファルスとか、スラップスティック・コメディとか、ナンセンスやドタバタも大好きだ。
生前の由利徹さんとは、親しくさせていただいた。
徹底した彼の喜劇役者としての表現舞台はそっくり愛した。
自分でもあえて「FARCE(ファルス)」と名付けた舞台のホンを書く。
(今秋、劇団テアトル・エコー第131回公演「大都映画物語――遺骨まで愛して」もその具体例だ)
しかし、ファルスとかスラップスティック・コメディや、ナンセンスやドタバタという企画は、制作者や出演者が不勉強でいい加減で不真面目だと笑うどころか、ただ肚の立つシロモノに成り下がる。ただの悪ふざけにしかならない。
いや、それでもあの「羅生門」なるドラマが好視聴率を稼ぐということになるのだろうな。
ダメな視聴者はつまりはテレビをダメにする。
そして、ダメな選挙民は政治をダメにする。
それにしても、テポドンとやらの破壊兵器をやたらぶっ放す国も元首も絶対に許せないが、ノーテンキなテレビ番組をチヤホヤしている日本の現況も容認できない。
— posted by 本庄慧一郎 at 04:52 pm
「ニッポンの芸能人」シリーズ62
2006/6/30
劇団テアトルエコーのけい古場でのお楽しみ勉強会
6月24日(土)PM1:00〜9:00まで、恵比寿のテアトルエコーのビルのけい古場で「大都映画とチャンバラを楽しむ講座」に出席。
今秋(11月22日〜12月6日)公演の小生作「大都映画撮影所物語」に向けての若手劇団員のおべんきょう会という趣向。
「殺陣」のオ−ソリティ、永田哲朗氏のチャンバラ映画特集ビデオ(貴重)その分析のおはなし。そしてふじやま竜氏の時代物の所作についてのおはなし。
延々7時間あまり。御大熊倉一雄さん、演出永井寛孝さん、制作白井浩司さんをはじめ30名ほど。
木山みずほさん、あまのとしやさん。そして高瀬精一郎さんも出席。
とにかく長丁場、楽しい時間でした――と大好評。
こういった気楽なプレ勉強会開催もテアトルエコーさんならではか。
だいたい新劇系(?)の劇団やその関係者たちは小理屈ばかりでその実力はタカが知れている場合が多い。
秋の公演には、観客動員などで積極的に行動するつもり。
その気分を拡充して久しぶりの浅草へ
各地の豪雨とか。なんとも不快・不順な社会と人心……。
ムシ暑いのも百も承知で、浅草へ。(ワイフ同行)
まず、観音様裏のあの「色街」へ。下町風俳句めいたもの10余句を投稿する。
ウイークデイの昼間、人かげもまばら。
伝法院正門そばの居酒屋(十味小野屋?)にて昼食。冷や酒2本。
小店をのぞき歩き。仲見世はまあまあの人がいる。
人力車がよく走り廻っていて、賑わいにプラスしているかのようだ。
串団子2本を立ち食い。
すぐ隣の地球堂書店(店名はワイルドだが、駄菓子なども売っている古い店)で「ムック・落語家総覧(2000円)「日本女優史」(1000円)その他2冊買う。
そして(飲み足りないなあ)公会堂そばの(憧れの居酒屋)、ニュー浅草。
つまり、ショーチューが安いということ。
浅草育ちとしては、「なんとなく浅草」もぜいたくのうちなのである。
懐かしの大勝館ではこのところ、若手のチャンバラ芝居が賑わっている。
近々、永田氏、白川氏を誘ってくるつもり。
帰宅すると、小沢昭一さんからの寄贈本「老いらくの花」「小沢昭一的新宿末広亭十夜」の二冊。そして本地陽彦さんからは「原節子・永遠の処女伝説」の本が届いていた。
またしても、本庄慧一郎的ゲーノー気分高揚の、いい日でした。
— posted by 本庄慧一郎 at 04:53 pm
「ニッポンの芸能人」シリーズ61
2006/6/23
言葉をゴミにするラジオの公共性?
昨夏(05年8月9月)、2ヶ月の入院生活をした。
主治医の予想では、治療とリハビリで都合4ヶ月〜5ヶ月かも、とも言われたが、「請願して」2ヶ月で退院させてもらったのである。
診断書には「原因不詳」と明記されたユニークな疾病で、強いて言えば「風邪」、もしくわ「まじめに働きすぎる」ということだった。
なんにしても2ヶ月という「別荘暮らし」にはたっぷりの時間があった。
娘夫婦が用意してくれた名作落語のCDをくり返し聴いた。
そして、ラジオの深夜放送にじっくりと耳を澄ました。
かつては放送作家として構成台本をウンザリするほど書いていた。
現在の深夜放送は、ごく一部の番組を除いてはほとんどは「コトバのごみ捨て場」のようだった。
面白いとか楽しいとか、はたまたいい気分にさせてもらうことはもちろん大歓迎だが、いずれの番組もパーソナリティなる者の悪ふざけでとても耐えられるシロモノではない。
例によって「公共放送」という四文字のシラジラしさを痛感した。
とにもかくにも、出演者及びその取り巻きたち(タイコ持ち!)の勝手な悪ふざけは、リスナーへの配慮がゼロで、言葉そのものがノイズ化されていて、ひたすら意味不明であった。
うさん臭い人間ほどよく喋る
そういえば、ホリエとかムラカミといった男たちは、何かにつけてよく喋った。とりわけ彼らの行動が事件性をおびてきてから以後、実にペラペラと喋った。
この種の者の話は総じてその量に反比例して主旨や意味が不明確である。
現在、大いに流行している詐偽集団の連中――リフォーム詐偽から振り込め詐偽に至るまで、彼らはやみくもに喋る。
つまり、言葉の煙幕をめぐらすことで相手を混乱させて、穴に落とし込むのだ。
ついでに思い出したが、苫小牧市の元市長の弁明なども、まるで意味不明であったし、日銀総裁のフクイという男の弁明も同断であった。
もちろん、秋田のハタケヤマ・スズカなる女史の弁明や釈明も最初から?であった。
テレビなどでベラベラ喋っている者は、だいたいうさん臭いと思ってしまうようになった。
いや、本当にずる賢い悪党は姿を見せず、余計なことは喋らないのだ。
演劇の俳優たちは言語表現のプロか
演劇の舞台には直接かかわっているし、生活するための仕事が小説書きだから、(なにせ、日本語にかかわってざっと50年暮らしてきた)、どうしてもコトバ・ことば・言葉が気になる。
演劇の舞台ではかなりの俳優たちが、とてもプロとは思えないのが多い。
あれは、ノダ・ヒデキの芝居あたりからの傾向か、やたらせりふをがなる、叫ぶ、喚くというのが常態化した。
音量はデカイが、まるで意味不明なのである。
いちいち具体例を列挙するのはたやすいが、……ともかく「もの言う術」の手薄なこと、ダメさかげんにいまや歯止めはないようだ。
何度も書いたことだがテレビのバラエティ番組をはじめ、複数の出演者がガン首を並べる番組では、もうまっとうな言語表現は存在しない。
そこにあるのは、自己完結のノイズだけだ。
演劇の舞台だって似たようなものだ。
いまさらの如く美空ひばりを思う
美空ひばりの17回忌記念の3時間にわたるテレビ特番を観た。
デビュー当時の「女の子」だった時の歌唱力、そして晩年の表現力を再確認したが、余計なスーパーなど必要としない明確さと、言葉に託す美空ひばりの情念の豊かさ、その表現技術にあらためて感嘆した。
それにひきかえ、最近の若い歌手(や俳優などの表現者たち)の稚拙さ、幼稚さ、未熟さには、ただゲンナリするばかりだ。
偽装と虚偽と詭弁が横行する時代には、言葉はすべてゴミにされる。
そういえば「劇場型政治」といわれたコイズミ路線も、言葉はウツロで軽かった。やはり、あの人の言動にはうさん臭さがつきまとっている――。
— posted by 本庄慧一郎 at 04:53 pm