コマ劇場超満員の「マツケンサンバ」
2004/10/14
コミュニケーションというもの
女優の浅利香津代さんのお誘いで、ワイフともども新宿コマ劇場の「マツケンサンバ」を観た。松平健さんの銀ラメ衣裳のダンスに、オバサンたちがワッと詰めかけていた。
1F8列目からスロープ状の観客席をふり返ると平均60歳くらいのお顔がびっしり。壮観とはこのことかと思った。
演劇をはじめとするLIVEはすべからくその企画にふさわしいコミュニケーションによって成立する。
「マツケンサンバ」のブームは、主役のケンさんをはじめとする出演者やスタッフたちがしっかり〔観客〕のことを考慮した結果だ。
勝手で未熟なTV出演者たち
実演というコトバはなにやらストリップショーのニュアンスがある。つまり映画でもテレビでもないLIVEということだが、ぼくはこのLIVEはこまめに出かける。
もともと演劇出身だということもあるが、生活のためにかかわったテレビやコマーシャルでは、その関係者や出演者たち(ごく一部の者を除いて)の質の劣悪さにはウンザリして身を退いた。
たとえば現在のテレビの番組やCMの身勝手さ、デタラメさはどうだ。
とりわけエンターテインメント番組の、ほとんど口から出まかせのおしゃべりの質の悪さは言語道断である。
かつて、城達也さんなどとあれこれ番組を制作したが、そのコトバの、ことばの、言葉の表現の端正でビューティフルであったことは忘れない。
現在の若い出演者たちのデタラメ・浅慮・いいかげんさには肚も立たない。
つまり、視聴者(観客)をほったらかして勝手に騒いでいるだけなのだ。
サケをくらって傍若無人に振る舞うガキと同様である。
そんな番組につきあっている視聴者もまた情けないとしかいいようがないのだが―。
小泉サンの国会原稿棒読み演説
小泉サンというお方は口軽におしゃべりになる。そのお方の今回の臨時国会でのスピーチは、ヘタクソな原稿棒読みに終始した。
内容も抽象的、安直なセイシン論(精神という文字に価しないネ)で具体性ゼロ。
そういえば、政治家も、俳優も、バラエティと称する番組の出演者たちも、原稿や脚本に従っての語りとなるとみんなド下手としかいいようがない。
狂犬といわれるブッシュに従順に従うポチの原稿棒読みにはまるでハートがないのは当然なのだ。
「牽強付会―けんきょうふかい」という四文字熟語がある。ご存じのように意味は「すべて自分の都合のいいように強引に自説をこじつける」である。(例・イラクのこと!)
お客様をないがしろにする輩たち
消費者を置いてけぼりにした「ダイエー」の末路とか、放慢経営の銀行、欠陥不良品としかいえないクルマの放置、さらに読売のワタナベさん、西武のツツミさん、さらに1億円のハシモトさん、―この種の事件は数知れない。いまや常識的人間モラルは無に等しい。
ぼくはよく、LIVEに出かける。ナマで演じるというその形態に、演じる人たちの誠意や熱情があると期待するからである。
欧米の演劇やコンサートでは、観客のブーイングや拍手は当然である。
日本の妙にオトナシイ観客(政治における選挙民)たちもまた「飼いならされたポチ」になり下がっている。
P.S. それにしても、松平健サン、この次はどうするのかなぁ?(ぼくならこうするという思いあり!)
— posted by 本庄慧一郎 at 10:12 am
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