「ニッポンの芸能人」シリーズ46
2006/3/10
元祖鬼平・松本白鸚。
池波正太郎原作「鬼平犯科帳」といえば、もっぱら現中村吉右衛門のシリーズがおなじみである。
この人気のシリーズは、初代が松本白鸚(当時幸四郎)。つまり、現在の松本幸四郎、中村吉右衛門の父上。そして市川染五郎、松たか子のおじいさまだ。
(この「鬼平」シリーズのゼネラルプロデューサー市川久夫さんは先年亡くなられたが、とことんジェントルで優しい先輩であった)
もともと「鬼平」はこの松本白鸚(先代中村吉右衛門)の主演でスタートしたのだ。
ぼくはせっせとTVコマーシャルを制作していた頃、カティサークというスコッチウィスキーのCMをそっくり請け負った(プロデュース・企画・コピー・作詞等の全般)。
スタンダードものに真野響子。12年ものには白鸚……というキャスティングで、楽しい仕事をした。
お二人とも文句なしに魅力的、素敵なお人柄で、CMも品位のある、それでいてエンターテインメント性の濃いものに仕上がった。
当時、鎌倉鶴が岡八幡宮前にあったご自宅に参上していろいろ親しくおはなしをした。奥様が経営なさっていたレストランでおいしいワインをごちそうにもなった。(ご自宅でチラチラお見かけした若者お二人は、現幸四郎・吉右衛門ご両人だった)
白鸚さんはすでに「人間国宝」というエライ方だったっが、この方にはエラソーな気配はみじんもなかった。
「図にのるということ」の醜悪さ。
ニュース・ワイド番組にはなぜか「芸能コーナー」が必ずある。そして、やたら結婚したの離婚したの、はたまたゴタゴタともめているのなどなど、連日のように登場する。
芸能レポーターと称する「あさましいマスコミ・ハイエナ」が群がり寄って画面を騒がせる。しかも、取材されるご本人たちがまた、ズルズルと牛のヨダレのようにだらしなくよくしゃべる。それはもう「露出狂」としかいえない醜悪そのものだ。
「品性」とか「矜持」とか「自制」といった文字や意味とはまるで無関係な欠陥人間が デカイ顔をして恥をさらす。
とにかく、皆さんやたら「図にのる」のである。黙って顔を下げて引き退るということはない。
たとえば、いいトシをした松居一代とうヒトが、船越英一郎と再婚したらしいが、現在、いかに幸せかペラペラとしゃべる場面を(たまたま)何回も観た。よくも臆面もなく……とただ呆れ返りウンザリした。
とにかくいまのテレビには「分相応」ということを忘れ果てた連中ばかりがのさばっている。
ぼくはいまの生業(なりわい)としている時代小説の仕事で、元禄時代の紀伊国屋文左衛門とか奈良屋茂左衛門のことを書いているが、彼ら「元祖バブル金持ち」のバカさかげんも「図にのる」ことでトコトン終始していて笑ってしまう。
図にのるといえば、演劇畑の中尾彬、江守徹などのオジサンもバラエティ番組(?)などでガキ・タレントと一緒にまじって愚にもつかないコトをまことしやかな顔でしゃべっているのもただミットモナイ。
自宅に戻ってふとんに入ってから「自己嫌悪」なんてことに苛まれることはないんだろうなあ。ウラヤマシイというかエライというか……。
そう、みのもんた、島田紳介、愛川欽也などなど……あの正義漢ぶりも分相応を忘れたいかがわしさがつきまとう。
松本白鸚のエピソード。
カティサーク12年もののCM撮影のとき、弟子たちに「とんぼを切る所作」のけい古後のひととき、ゆっくりくつろぐ白鸚さんがロックグラスでカティサークを楽しむシーンがあった。アルコールはたしまなない白鸚さんがグラスを持ち、「ヨーイ、スタート!」でアクションということになるのだが、そこで彼は唇をとがらせてグラスに近付けた。「それは、なみなみとついだ一升マスの酒を呑む時の仕草です。グラスの手を口に持っていって下さい」と注文した。その時のこの「人間国宝」は頭をかきながら破顔一笑した。
その笑顔の屈託のなさ人なつっこさは、いまでも忘れない。
そういえば、現吉右衛門がこの父上についてこんなエピソードを記している。
「若いころのおやじはもう大変なプレイボーイで、ある日の劇場の一階二階三階にそれぞれ彼女を招いていておやじは三つの階をかけめぐって、一度に三人とデートしたそうですよ」(「歌舞伎事典」講談社)
ま、いろいろあってもいいけど、つまり、下品にならずにやってもらいたいということですよ。「図に乗ってる」皆さん!
— posted by 本庄慧一郎 at 05:08 pm
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