「ニッポンの芸能人」シリーズ56
2006/5/19
ぜひ観たい映画は初日に観る
映画「明日の記憶」を06年5月13日(土)AM10時の封切日第1回を観る。(大泉シネコンNO.3)
前回は「寝ずの番」は新宿文化のやはり封切日第1回を観た。
そういえば三谷幸喜の「笑いの大学」をやはり2年前の12月の封切日第1回を新宿で観ている。戦時中の芝居の脚本家とその脚本を検閲する担当官との攻防を描いたこの映画を観て「オレも書かなくちゃ!」と笑劇「大都映画物語――遺骨まで愛して」を1ヶ月でまとめ、劇団テアトルエコーの熊倉一雄氏にプレゼンした。そしてほぼ2年後になる今年、06年11月にテアトルエコーで上演される。(演出永井寛孝氏)
この「明日の記憶」という物語にしても、もともと当方にコンタンがあり、ぜひ、意味のあるモチベーションを得たいと出かけたのだ。
例にによってせっせと文庫書き下ろし時代小説を(1日15枚を目標に)書く毎日だが、このところしきりに、そのスキをぬって昭和史を題材にした(自伝的要素をふくめたフィクション)物語を書きたいと思ってきた。
若年性アルツハイマ−病という主人公の運命
昨年(05年)の夏、ぼくはギランバレー症候群亜型ミラー・フィッシャー症候群
という疾病に襲われた。(その概略は後述する)
そのこともあって、主人公の動揺など、痛いような共振を感じた。
また、彼の職場がぼくが働いていた広告業界であったので、その点でもついつい自分を重ねてみる度合いが強まった。
たとえば、彼が辣腕の営業部長を勤める代理店にたいして競合するライバル会社として「デン・パク」が出てくるが、この「電通・博報堂」ではずいぶん仕事をした。物語の中にもある「競合プレゼン」はぼくの主戦場だった。
主人公の仕事ぶりとか、多忙な日常。そして家庭人としての欠陥や不備などを見せつけられると気持ちが波立った。が、ぼくはさいわい、そのギョーカイに「あばよ!」と言えた。
渡辺謙演ずる主人公は50歳にもならない働き盛りで発症し、やがて何十年も生活を共にした妻を「他人としてしか見られない状況」で物語は終わる。
たまたま、広告代理店電通の社員である作家藤原伊織の「雪が降る」という短篇集を読んでいた。この物語の主人公も広告代理店の男であり、たまたま二つの作品で、奇妙な追体験を強いられたのだが――。
(でもホンネを言うと広告代理店とかゲ−ノ−界のハナシって生理的な嫌悪がある。なんだかアザとく、ワザとらしいのだ。「明日の記憶」は、原作もそうなっているのか。原作者も広告関係者だったのか? 原作を読んでみるつもりだ)
タレントと俳優、または役者との違い
吹けば飛ぶようなタレントがバッコしている。あるいは目障りに右往左往している。妙に小ギレイな兄ちゃんやネエちゃんばかり出てくる作品はツマラナイ。ダシのきかないふやけたソバを食わされているような作品はごめんだ。
渡辺謙はいい。「ラスト・サムライ」よりも、彼の思いを託して具体化したこの作品のほうが良質なのは当然だろう。
ここにはまぎれもない現代があり、現代人の偽らぬ姿があるのだ。
前回の映画「寝ずの番」でも書いたが、やはり映画や演劇なんて、演ずる者に存在感や表現力がないと「金を返せ!」となる。
「寝ずの番」では俳優陣が秀逸だった。
今回も大滝秀治のキャラに有無を言わさない魅力があった。この大滝サンに以前、SONYトリニトロンカラーテレビの声の出演をお願いした時(彼のCM初出演になった)、彼は「民芸の2時間半の舞台でもちゃんとメッセージ出来ないのに、30秒コマーシャルなんて……」。でもその大滝サンはいま、CMでもその稀有なキャラで売れている。
それと、安物の「○○殺人事件」などというテレビドラマには出ない、樋口可南子サンもとってもいいなあ。(かつてぼくが本名望田市郎でコピーライターやっていた頃のご同業糸井重里サンの奥さんでした!)
ぼくはこの映画を観ての帰り、同伴した妻ととりわけ仲睦まじく食事をして帰路についたのデシタ。
— posted by 本庄慧一郎 at 04:57 pm
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