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みさきけいのポケットブック



深実一露 詞句発句
―― 五七五のめもらんだむ ――


深実一露 詞句発句
―― 五七五のめもらんだむ ――





深実一露の五七五


草野一露 詞句発 句
―― 五七五のめもらんだむ ――



深実一露の五七五

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— posted by 本庄慧一郎 at 01:14 pm  

「H・P再開のごあいさつ」


05年7月末から06年の1月末までのざっと6カ月間は〔作家業〕を生業としてきたぼくにとっては、四文字熟語でいえば「晴天霹靂」であり「驚天動地」「五里霧中」でした。
 いったい何が、どうしたのか?
 その経緯を簡略にまとめましたので、ここに掲載させていただいて、H・P再開のごあいさつといたします。

「2005年夏の初体験」
 このトシになると〔初体験〕という言葉やその実体験とは、まるで無縁になる。
 しかしぼくは、この夏(05年)、掛け値なしの、そして鮮烈で刺激的な〔初体験〕に遭遇した。
 7月28日、来客があり、暮れてからバス亭までお送りした。5分ほどの往路の道すがら軽い目まいを自覚した。帰り道、道路サイドの白の安全ラインが、V字型に変形して見えることに気づいた。つまり、先にゆくほど1本のラインが広がって見えるのだ。
 しっかり目をこらすと、遠方の夜景が二つにダブって見えた――そして、足がふらつく。
 あきらかに平衡感覚がマヒしはじめていた。
 翌朝、ふとんから起き上がれない〔異常事態〕にうろたえた。
 すでに高血圧の治療で通院していた近くの大泉生協病院に、女房に取りすがってタクシーでたどり着く。
 初診のA先生が、即座に神経内科のS先生にリレーして下さり「即入院」となる。「たぶん……」という冠詞付きだったのだが、病名は「ギラン・バレー症候群の亜型のミラー・フィシャー症候群では……」という診断。(ちなみにこのカタカナのつながった奇妙な病名は転院後に記憶したものだ)
 さらに「最低治療1カ月くらい後のリハビリは……ひょっとすると3カ月ほど……」というコメントに、すでにかなりクタリとぶちのめされていたぼくは、ただ絶句。
 すでにまぶたは垂れていて、視野はあいまいもこ、頭の中は混乱の極に達していた。
 まぶたや顔面に弛緩現象があり、両手足は完全マヒ、実感は「ぼろ屑になった」である。
「筋無力症的な病気ですか」
「関係ありません」
「高血圧とか血管の故障とか……」
「関係ありません」
 その日の午後から(当の本人は五里霧中!)迅速な治療が開始された(らしい)。
 このややこしい疾病の特効薬の点滴、連続24時間を6日間。そしてさらに1日置いて3日間――。
 その後もぼくは「痛い、苦しい」と闇の底を這いずり回っていたが、そのあとすぐ、リハビリのS先生の「ベットからできるだけ離れるように」という指示。
 「げ!」とまた絶句。なにしろ、ひとりで起き上がることも出来ない〔重病人〕である。
 食事もワイフや娘の世話になる状態。
 とにかくリハビリは開始されていた。
 ベットから車椅子への30センチの距離が恐くて……という無惨なありさまなのだ。
 だが、1カ月後の8月30日、大泉生協病院と姉妹病院の東京健生病院へ転院させられた。
 こちらにはリハビリ専門病棟があるのだ。
 さいわい、リハビリの先生が同じくして転勤になって、そのままぼくの担当になった。
 この病院は基本的な理学療法部門と、生活行動に対応した作業療法部門がある。
 ぼくは全員の集団リハビリ体操とさらに個人の目標に対応したリハビリ特訓を受けた。
 明るくてチャーミングな女性療法士さんたち(作業療法士はS先生)の容赦のない指導で体調はみるみる改善されていった。
 車椅子の人たちの日常やリハビリという治療行為を第三者としてかい間眺めていたぼくは、その〔実体験者〕になった。
 ぼくの病気について、娘や息子がインターネットで調べてくれたところでは、「10万人に1人の確率」とか「出合い頭に遭遇した交通事故のようなもの」とかいう解釈があった。
 テレビや新聞を一切遮断しての「治療とリハビリ専心生活」は、ぼくを謙虚にした。
 治療に携わる医師、看護師、そしてケースワーカー、理学療法士、作業療法士さんたちの献身的な対応ぶりに、ぼくはあらためて脱帽した。
 ぼくは、税務署の届けでは「文筆業」として、ざっと50年暮らしてきた。医療や介護のことにはかなりの関心をもってきたつもりだが、その知識や理解が半端だったことを思い知らされた。
 診断書のややこしい病名の「原因」の欄には「不詳」とある。「理由判らず」ということだ。が、あっというまに1カ月が過ぎ、当初、ひょっとすると治療とリハビリで3カ月〜4カ月は、という〔宣告〕があった。しかしぼくは、リハビリにたいしてきっと優等生になる!と決意して専心努力した。
 そして、主治医の先生に請願し、自主トレーニングを前提にきっちり2カ月で退院した。
 自分でも信じられないほどに〔失地回復〕を果たしたぼくは、ついお世話になった方々につぶやいたものだ。
「皆さんにお世話になった者は、自分に対して、また社会に対して、一つでも賢くなることでお応えしなければ……」と。
 この「ひと夏の経験」の感想は「健康がいかに大事なものかは、それを失った時に真の価値を思い知らされる」である。
 そしてどんな疾病にも効く「もうひとつの特効薬は家族の愛」であるつけ加えたい。

P・S
 今回のぼくのこの体験について、ある出版社の方が「ぜひ体験記として本になさったら」と進言してくれました。
 となるとまずは「小説」とか「戯曲」で、などとスグ考えてしまいました。(物書きとしての哀しい性(さが)か、はたまたこれもどん欲な作家ダマシイのせいか?)  ちなみに仮タイトルは「愛しのギラン・バレー症候群――いざ、生きめやも」デス。
 作品のトーン・ニュアンスとしてはやはり「面白うてやがて哀しき……」になるでしょうなあ。 

— posted by 本庄慧一郎 at 05:12 pm  

「ことば・声・人間・演劇」


朝日新聞05年1月10日「声」欄の投書
「新聞や雑誌は文字が大きくなり、目に優しくなった。だが耳の方にそういう配慮はなさそうだ。
 年をとったせいか、数年前からテレビの早口が気になる。せかせかとしてゆとりが感じられず、意味がすぐには頭に入らない。
 新春に放映された歴史ドラマ「大化改新」でも昨年の韓国ドラマ「冬のソナタ」でもせりふが速く、よく理解できない場面が何カ所もあった。
 ニュースでも、とりわけ若いアナウンサーは早口で私には聞き取りにくい。家内もそう言う。高齢者にも分りやすく、もう少しゆっくり話して頂けないものか。放送局は語り口が相手に伝わりやすいよう心がけてほしい。
 紀宮さまと黒田さんの婚約が内定し、記者会見が年末に行われた。その際のお二人の話しぶりはゆったりとして実に分かりやすかった。お人柄をしのばせ、心温まるものがあった。」
(加藤隆二 神奈川県小田原市 75歳)
 
 現在のテレビの大部分が、ことばを乱暴に粗雑に扱っている。時にはデタラメでさえある。
 ニュースワイドのコメンテーターなる者についてもまた、そのことば遣い以前に、その思考や論理のいいかげんさに呆れることが多い。
 とりわけ、バラエティと称する番組の、馬鹿の一つおぼえのような「ヒナ壇」に並んだ者たちの喋りは、それこそ「悪しき政治家たち」の国民主権を無視するヤカラ同様に、彼らテレビ寄生虫族も視聴者をおいてけぼりにして、ただひたすら自分たちだけで悪ハシャギしている。
 投書の方が言われているように「言語不明」の原因は早口だけだろうか。それは違うと思う。
 早口というならば、かつてロイ・ジェームスというタレントが、江戸弁ふうの歯切れのいい口跡(ものの言い方・俳優などのせりふの言いまわし)で人気があった。長身のハンサムで、DNAにはたしか「トルコ」がまじっていたらしい。
 彼とはずいぶんラジオ番組の構成台本でおつきあいしたが、400字詰め原稿用紙は約1分という量では足らなくて、かなり余計に書くハメになった。
 もうお一人、早口の達人をあげるならやはり黒柳徹子さんである。
 「名ナレーター」としてその名を語りつがれていう城達也さん(かの「ジェットストリーム」の――)とご一緒したTBSラジオの生の2時間番組のCMに(スポンサーは時計のセイコー)黒柳さんが起用されたのだ。
 ぼくがコピーを書いた。何種類か制作した。
 60秒のCMだったが、ぼくが書いたコピーの分量では、時間が余ってしまうのである。
 つまり、ロイと同じように黒柳さんの語り口がスピーディなので「もっとコピーを足してほしい」と言われた。
 つい「もうすこしゆっくり喋ってください」と言ったら、「それじゃあ、黒柳徹子じゃなくなっちゃう」とチャーミングな微笑でニラマレタ。もちろんその場でコピーを書き足した。
 前にも書いたが、城達也という人は、ぜったいアドリブやその場の思いつきで喋らなかった。ロイもアドリブはやらなかった。

フリートークという名の堕落
 かつてのテレビやラジオには、構成台本だがあり、その台本にのっとって出演者は表現した。
 もっとも、浅草などのボードビル系の芸人たちは(たとえばストリップショーの合間にコントを演じていた渥美清をはじめとするコメディアンたち)むしろヤジをとばす客たちに当意即妙にやり返すことを得意になってやった。
 それは劇場という限定された場所でのことだから、お客サービスになり得たのだ。
 一方、演劇ではお客をタネにして笑いを取るのは「客いじり」といってタブーとされている。(近頃、歌舞伎でも、それをやるのダ)
 以前、前進座の時代ものの舞台(ジェ−ムス三木の作)で、夜鷹(ゴザ一枚を適当なところへ敷いて男にからだを売る娼婦)が客席へ下りてきて、「ねぇおひま? あたいと遊ばない?」などとやっていた。「前進座がこんなことやるの?」と大いにシラケタたものだ。
 話をもどそう。
 いまの芸人やテレビゲーノー人のことばが不明瞭なのは、ことばに対して彼らがゴーマンで、浅慮で、いいかげんだからなのである。
 彼らは、ことばを汚し、歪めて、使い捨てにしているのだ。
 ぼくは、ざっと50年、日本語を材料に暮らしてきた。
 ラジオ・テレビの台本や脚本、そしてラジオ・テレビのコマーシャルの企画やコピー、CMソングの作詞など。そして現在の時代小説。いまあらためて舞台の脚本に挑みつつある。いや、CMではない歌の歌詞にも全力投球するつもりでいる。
 もちろん、ことばを大事にする人だけご一緒するのを大前提とする。
 これと思った人に、しっかりと伝わることばとその方法を考え、それを具体化するというのがぼくの本来の仕事なのだから。

ヘタな語り手は「名作」でごまかしている
 読み語りという表現方法がブームである。
 たとえば、幸田弘子さんのような名手もいるが、「語る」というための技や術を学ばない者が、山本周五郎だの宮沢賢治だの樋口一葉だのをとりあげる。
 だが、名作を隠れみのに、そのヘタクソさをごまかして平然としているケースが多い。
 文字を音声化するだけなら、駅のコンピュータ・ボイスもラクにやってのける。
 この4年間、ぼくの書斎に通い詰めたレディがいる。東京二期会のメンバーで、ソプラノ歌手の木山みづほ。ぼくは演劇の出身なので、自作の時代小説をテキストに「読み語り」をけい古してきた。
 オペラの「アリア」を歌うのと、時代小説(エンターテインメント)の読み語りの技は、現在のところうまく共存しているようだ。
 このところ「歌と語り」のライブで好評を得ているらしい。
 歌も語りも、そして喋りも、「ことばの根っこ」をしっかりと理解しようという謙虚さとパッショナブルな表現力によって成り立つのである。
 それにしても……ことばをゴミにしてるヤツは誰だ?

— posted by 本庄慧一郎 at 10:31 am  

「いい男たちのこと」


50年という歳月(敬称は略させていただきます)
 ぼくの仕事としての出発は演劇だった。
 劇作家三好十郎主宰の劇団戯曲座のけい古場が京王線桜上水の宗源寺という寺にあった昭和20年代後半に、いま評論家として活躍する樋口恵子(旧姓柴田)の紹介で出かけた。
 三好十郎は叔父小沢不二夫とすでに親しかったが、三好十郎の作品や評論には当時のぼくは強く魅かれていた。
 新国立劇場の芸術監督栗原民也の肝入りで04年、「浮標――ブイ」と「胎内」という三好作品が上演されて、そのしっかりした舞台造り(演出)に好感をもった。
 そして三好作品を系統的に、また誠意をもって取り組んできた劇団文化座の「をさの音」も観た。その他いくつもの作品を連続上演したのだが、原稿のメ切りに追われていて観られなかったが。
 思えば、文化座の創始者佐々木隆(鈴木光枝の旦那様、佐々木愛のお父上)には、三好十郎の指示で、演出論を拝聴に参上している。

素敵な男たちのこと
 劇団戯曲座では高品格に出会った。
 当時、大映にいた高品格はニックネームが「班長」だった。彼の兵役経験に由来するらしい。
 中野区に哲学堂という公園があり、そばに丸山という町がある。彼はそこで駄菓子屋さんのような小店をやっていた。
 ぼくは何度か高品格という先輩を慕って家を訪ね、三好十郎談義や演劇の話を拝聴している。
 高品格はそのあと、日活映画に移籍、石原裕次郎などのワキ役として存在感をアピ−ルする。
 たしか「全日本フライ級第6位」というプロボクサーとしての経歴を有していた。そのせいで裕次郎とのカラミでは抜群の凄みを見せた。
 その高品格の演技では、和田誠の監督作品「麻雀放浪記」が忘れられない。
 そういえば、イラストレーターの和田誠ともご一緒している。
 合同酒精の「ハチ・ハニーワイン」のポスターのアート・ディレクション(フォトは立木義浩)をお願いした。青山のマンションに参上している。またカネボウのPR映画には、作曲家の八木正生、フォトグラファーの立木義浩という売れっ子お三方に出演してもらった。
 「魅力ある女性について」というテーマで語ってもらったのだ。
 立木「雨の日に美しさがきわだつ女がいいなあ」。和田「モノを食べてるときに、ビューティフルな人がいい」。そして八木「いい女はいつ、何をしていてもいいもんだよ」。立木と和田「それって、八木チャン、ずるいよ」と大笑いになった。(記憶にズレがあるかもしれない……)
 いまぼくは、舞台の脚本を書いていて、和田誠著「ビギン・ザ・ビギン――日本ショウビジネス楽屋口」を再読した。有楽町日劇の創始からそのヒストリー、そして演出家山本紫朗と越路吹雪、その他のコメディアンやダンサーたちのエピソードが頑味できる労作である。

ピアニスト&作曲家八木正生
 和田誠と立木義浩と八木正生は親しかった。
 その八木正生は50代前半で急逝した。
 先日、新宿中村屋4階のラコンテで、デュークエイセスの谷道夫に久々に再会した折に八木正生について語った。
 ジャズピアニストとしての図抜けたテクニックを持っていた八木正生は、ジャズボーカルで文句なしのハーモニィを聴かせるデュークエイセスが大好きだった。
 そのせいで八木正生とのCM音楽コンビ(作詞ぼく、作曲八木正生)でン十曲も作ったが、デュークエイセスとの仕事も多かった。
 八木正生は高倉健にも惚れていて、高倉健の「アサヒビール」のCMでは、ぼくの作詞・作曲八木正生、そしてボーカルはデュークエイセスでイメージソングを作った。
 しかも高倉健は映画「新・網走番外地」での田中邦衛との北海道の露天風呂のシーンで、「おまえがいて、おれがいて、人生にがいかショパイか」と歌ってくれている。
 CM撮影の大泉東映スタジオで、ぼくは直接、健さんから「ホンの御礼のシルシです」という封筒を押しつけられている。(日本音楽著作権協会を通じて頂くことになっていますと固辞したら、そんなこと関係ありませんと言われたのだ)
 八木正生というアーチストのダンディズム……そして高倉健。
 和田誠も立木義浩も……それに高品格。
 いい男たちに出会った。
 それに、小沢昭一、熊倉一雄の〔慈味〕ある個性……いいなあ。

— posted by 本庄慧一郎 at 10:30 am  

「芸能人の品性について」


図にのるヤツほど淋しがり屋である
 テレビを中心とするマスコミ業界では、ちょっと人気が出てくるととたんに図にのるヤツが多い。
 前回も書いたのだが、人気が出てきても、また人気が上昇しても、それ以前とマナーや言動が変わらないというのは、やはり生まれつきのお人柄である。
 「成り上がり者」の多いこの業界のこと、コロリとひょう変するヤツが多いのは、なんとも哀れな現象である。
 来たる2005年は、「デュークエイセス結成50年」ということで、自分の50年をもかえりみた。

長いおつきあいになった人(以下、本文中敬称を略させていただきます)
 かつてニッポン放送の午前8時に(テープネットでの全国放送)「サザエさん」という番組があった。叔父小沢不二夫の脚色で10年近く続いたのではなかったか。その当時、助手としてせっせと「書く」お手伝いをした。
 サザエさんのお父さんが東野英治郎、お母さんが三戸部スエ。サザエさんが市川すみれ。ワキには若き日の(!)岸田今日子、小沢昭一が出演していた。
 その小沢昭一は20代の青年であった。
 はじめは、ヘンなお婆さんとかゴムひもの押し売りなんかのチョイ役で、その後、酒屋のきく屋さん役のレギュラーになった。
 当時、有楽町のスタジオで、東野英治郎大先輩のカンロクあるお姿を何度も拝見している。
 なんとも「味わいのある」お人柄だった。
 日活映画などで活躍する以前の若き小沢昭一はすでに、「居ながらにしての三枚目」で、御大東野英治郎から「昭一! 昭一!」とよばれて大いにきわだっていた。

水戸黄門役者4人とのおつきあい
 東野英治郎といえば(舞台のキャリアはここではおくとして)水戸黄門を思い出す。そして2代目の西村晃。この人とはフジTV「待ッテマシタ」でホンを書いた。魅力あるキャラクターだった。
 この番組では桂小金治でも台本を書いた。ちょっと以前に久々に「禁酒番屋」という一席を聴き、親しくお話もした。「泣きの小金治」のことは、小沢昭一寄贈の新刊「寄席の世界」にくわしい。
 そして黄門サマ3代目の佐野浅夫は、前回書いたようにTVCFのナレーションでご一緒している。
 4代目は石坂浩二。この人が「ヘイちゃん」とよばれてやたら若い子にモテていた時代にご一緒している。(TBSラジオ毎日オビの詩をフィチュアしたDJ番組)
 というわけで、皆さん、それぞれに忘れ難い人たちだった。(石坂・佐野ご両人は健在)

語り口のうまさとお人柄
 ……というサブタイトルとなると、やはり小沢昭一。そしてこれもまた長いおつきあいの熊倉一雄。いずれの方も人生でも業界でも先輩である。
 小沢昭一は、井上ひさしの「唐来参和」というひとり芝居でなんともユニークで楽しい芸と、記録的な上演回数をのこした。
 熊倉一雄といえば「ゲゲゲの鬼太郎」の主題歌とかヒッチコックの声とかがピンとくるが、劇団テアトルエコーの創立メンバーとして(牟田悌三、矢島正明という人たちも在籍していた)井上ひさしの若き日の芝居を精力的に演じてきた実績がスゴイ。
 熊倉一雄のテアトルエコーが「ルーム・サービス」という舞台で、04年度文化庁芸術大賞を獲得した。
 その熊倉一雄に出演ねがったラジオ番組や(ニッポン放送の「防災キャンペーン」やコミカルDJ番組や「少年ジャンプ」100万部突破のキャンペーンソングの歌など)いろいろお願いした。
 そうそう、現在ボランティア活動に忙しい牟田悌三、あいかわらずの名ナレーターぶりで活躍する矢島正明……この方たちとのおつきあいも古い。皆さん、紳士である。

劇団四季の日下武史
 劇団四季の創立当時、(もう半世紀前?)東京駅八重洲口の国鉄労働会館の粗末なホールなどで公演してたアヌイの「せむしの聖女」の「チリ紙+α」のようなパンフ(チラシ?)が手もとにある。
 ぼくのいとこ(小沢不二夫の長女・女優水沢有美)が子役として「せむしの聖女」に出演していたこともあって、その頃の四季の舞台はよく観ていた。
 ちなみにその1枚ペラペラのパンフ(10月31日〜11月9日とあるが年号が記されていない)には出演者として、日下武史・水島弘・田中明夫・高橋昌也・藤野節子・杉山紀子・緑川薫・安田千永子とある(安田千永子さん、お元気ですか?)
 なお、この神田一ッ橋講堂の公演の入場料、Aは200円。Bは170円である。
 つい先日分厚い「浅利慶太の四季� 廚箸いΡ薹猩製犬鯑匹鵑任い董�国鉄労働会館ホールとか神田一ッ橋講堂の舞台を思い出した。
 そして、ほそっりとしていた浅利慶太の姿もしっかりおぼえている。さらに、日下武史の若い頃のことも。そう、日下武史の口跡に惚れてラジオ番組(TBSラジオ・TBSブリタニカ提供の「海のサイエンス」をテーマにした内容のものと、さらにトヨタの自動車のぼう大なCMなど、ずいぶん出演してもらった。
 日下武史といえばやはり「エクウス」――初演から何年経ったのだろう?
 ということでこの項、新年につづく――。

— posted by 本庄慧一郎 at 10:29 am  


*** お知らせ ***
自主CDを制作
21.1:130:128:0:0::center:0:1::
平和を願う歌
「鳥になれたらいいね」
総合プロデュース:本庄慧一郎
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