〔居場所難民〕のこと
芸能人というのか、テレビ寄生人種というのか、ま、どちらでもいいのだが、とんでもないアブク銭をつかんだ者が大豪邸を建てたりする。
しかし、毎日ワサワサと駆けずり回っているその邸のあるじは、ほとんど帰って来なかったりする。帰って来てものんびりくつろぐ時間もなく、寝室と風呂場とトイレを往復してそそくさとまた出かけてゆく。
独身者はそれでもいい。が女房も子どももいる者も、ほとんど家族との和みの時をもつことはない。
つまり、豪邸や別荘を持っていても、たいていは彼らは人間としての〔居場所〕を確保していないのである。
いま、いわゆる団塊の世代の大量定年時代が始まったといわれているが、仕事一途に過ごして来た彼らは、あらためて〔居場所難民〕といわれている。
退職金目当ての熟年離婚――言うなれば、同志であり、良き伴侶であった(はずの)女房ドノに、ずばり愛想づかしを宣告されるという事態がヒン発しているとか。
離婚という表面立った事態に発展せずとも、(夫婦ともども世間体を気にしての)家庭内別居などはザラにあるようだ。
具体的にいえば、あらためての夫婦という関係を拒否されるという(アカの他人にリセットする)ということだ。
別の言葉でいうなら、目下、〔居場所難民〕増殖中である。
立派なマイホームがありながら、人間としての、男としての、あるいは精神的な居場所がないということは、ほんとうに哀れだ。
すでに巷にはホームレスなる人種が、ウロウロしている。いや大きい公園の樹木に隠れて、あるいは都会の河川の沿岸などのビニールハウスで、その日暮らしをしている。
帰るわが家がない、心を存分に解放し、くつろぐ場所がないという意味では両者は同じである。
たとえ家もあり家族がいて、また別荘などあったとしても、心底、おのれのすべてを解放しくつろぐことの出来ない者も間違いなく別種のホームレスである。
ジェットコースターの事故
大阪市エキスポランドとやらのコースターの事故は、現代のすべての問題を象徴している。
JR尼ヶ崎線の大事故は当然のこととして、原因である〔金属疲労〕はすべて人間の〔精神疲労〕と直結しているのだ。
かのマンション耐震偽装事件も、トラック脱輪事故も高層エレベーターの事故も、回転トビラ事故も、湯沸かし器事故も、さかのぼれば航空機の事故も……例外なく金属疲労とそこにかかわる者の精神疲労が直結して発生したものだ。
なにもかもが機械化されて、生活が、人間がそっくりそのシステムに取り込まれている現在、〔ジェットコースター事故〕と同種同質の忌しいケースは続発するだろう。
〔常軌を逸する〕という共通項
35年ローンなどという人生の主要時間をそっくりかけて返済した家のローンをやっと完済したあげくの定年退職。でも、その家に居場所がないということはどういうことか。
そういう人生って、スピード・オーバーと金属疲労で取り返しのつかない大事を招いたジェットコースター(JR尼ヶ崎線の事故などとも)と同質と思えてならない。
〔常軌を逸した――まっとうな道をはずれた〕といえば、堀江ナニガシとか村上ナニガシとかもいた。
ワンサとお金を儲けたあげく、コースからスピンアウトして、拘置所や刑務所を経て、前科という二文字付の場所に着地する――。
まともな、健全な市民としての軌道をはずすことなく生きたい。
つましくとも貧しくともいい〔居場所難民〕になりたくない。
「社会&芸能・つれづれ愚差」第6回(通算116回)
2007/5/4
かつて〔友人・仲間〕はワンサといたが――
思えば、つねに複数の人たちと組んで仕事をしてきた。
ラジオ・テレビ、そして広告ビジネスなど、すべてが複数のクルーによる作業だった。
具体例としては、CM撮影の現場では、昼食や夜食のベントーが80個〜100個を用意した。
そういう仕事から(さまざまな理由でイヤになって)離脱した。
当然、友人(らしき者)、仲間(のような者)も激減した。
淋しいか、と自問すれば「おお、さっぱりして気持ちイイ」である。
小説を書くようになって、アシスタントのカミさんと家族がクルーとなった。そして、心通じあえるごく少数の編集者の方たち――。
でも、「この人たちとは、生涯ていねいに心尽くしておつきあいしたいと思える」方々は、もちろんいらっしゃる。
以前の「玉石混交」とは異なり、ほんとうに信頼できる方々なのである。
でも、広告ビジネスの時代のおつきあいで、その個性と思考と人間性でいまもって敬愛している人がいる。(あのギョーカイの人では稀有な存在である)
アート・ディレクターの東本三郎氏だ。(スコッチ・ウィスキー「カティサーク」の真野響子キャンペーンでご一緒し、成果をあげた)
彼のエッセイ集「人生市場/闇市編・朝市篇」(上下巻)は読ませる。
その「朝市編」から「八月に思い、九月に忘れる」を転載させて頂く。
八月に思い、九月に忘れる 東本三郎
中国の教えにある。どんな物でも美味しく食べるにはどうしたらいいか、との問いに賢人答えて曰く、腹を空かせればよい。腹が空けばどんな食べ物でも人は食べる、そして美味しい。空腹は人間にとって最大の脅威であり、逃れられぬ宿命である。
国が腹を空かせる、空腹となる。故に食物を求めて狂う。これが戦争である。紀元前の昔より、空腹を満たすための戦が繰り返されて来た。現在、国の一番の食物は石油資源である。これがなければ電車は動かず、車は動かず、飛行機は飛べず、電気はつかず、何もかもが中世の昔に戻らねばならない。石油を制すは国を制すである。
アメリカはあらゆる情報を使って神国日本を戦争に誘導していった。鎖国を続けてきた幼稚日本は、外交の術を知らなかったし今なおそれは続いている。島国日本の命の綱、石油をシャットアウトした。日本は飢えた狼の様に手当たり次第にアジアの国に襲いかかった。ここで歴史を語るつもりはない。人は腹を空かすと狂人になるという教訓である。
終戦後、ダイヤモンドとジャガイモが交換され、ルビーと卵が交換され、サファイアと米が交換されていった。国の食物は石油であり、人の食物は自然の恵みが生んだ物であった。一個の卵、一個のカボチャ、一個のトウモロコシのために体を許す母たちがいた。戦争の中で安物にされた尊い命。戦後は尊い命のために、すっかり忘れていた自然の恵みに体を張った。国のためではない。生きるためにである。一丁の銃より一個の卵、一隻の軍艦より一頭の牛、一隻の潜水艦より一俵の米である。そこには思想も、哲学もない。あるのは生きるという人間の本能だ。人間という動物の本能だ。
しかし厄介な事に、人間という動物は他の動物と異なり、空腹を満たした途端によこしまな征服欲が生まれる。神が人間を作ったとしたら、永遠の修羅を作った事になる。空腹が全ての基といえる。ジハード=聖戦と今はいうが、そもそもの原点は日本の神風特別攻撃隊、略して特攻隊である。自爆の元祖である。若き者たちはたっぷりと洗脳、意識は高揚した。何通りも用意された手紙の見本に従い、遺書を書いた。父上さま、母上さま、天皇陛下万歳と。彼らは短期集中洗脳者であった。国もまた、洗脳中毒であった。判断不能、心身不能、理解不能であった。人間は十日間で洗脳できるという。一切眠らせない、同じ言葉を言い続ける。天皇陛下のため、国のため、天皇陛下のため国のため。一日中言い続ける。そして人間爆弾ができ上がる。今も同じである。
人間に空腹がある限り、または満腹がある限り戦いは終わらない。人間という動物の宿命である。永遠に続くのである。人間は獣であるという事を知らねばならない。最も危険な獣である。
毎年八月十五日が近づくと戦争の事が場当たり的に語られる。戦争は、人間が人間である以上終わらない事を前提に考えねばならない。情緒だけを八月にだけ語ってはならない。人間は人間を殺す事に快感を感じる生き物なのである。誰の中にもそれはある。人間が極限に追い込まれた時、いかなる人間にも狂気は生まれ、殺気は生じる。五味川純平が『人間の条件』の中で描いた「カジ」なる人間、「カミ」なる人間は一人もいない。歴史は作った者によって滅ぼされるという。ならば人間社会は人間が滅ぼすのであろう。あるいは神が宇宙の真理に従い、この大宇宙の中の迷える小惑星を一瞬にして消滅させるだろう。その日は明日か、明後日か判らない。いかなるSF映画も及ばない事実と共に消えるのかもしれない。
人は皆、八月に思う。戦争はいけない、と。だがしかし、九月には忘れている。
思えば、つねに複数の人たちと組んで仕事をしてきた。
ラジオ・テレビ、そして広告ビジネスなど、すべてが複数のクルーによる作業だった。
具体例としては、CM撮影の現場では、昼食や夜食のベントーが80個〜100個を用意した。
そういう仕事から(さまざまな理由でイヤになって)離脱した。
当然、友人(らしき者)、仲間(のような者)も激減した。
淋しいか、と自問すれば「おお、さっぱりして気持ちイイ」である。
小説を書くようになって、アシスタントのカミさんと家族がクルーとなった。そして、心通じあえるごく少数の編集者の方たち――。
でも、「この人たちとは、生涯ていねいに心尽くしておつきあいしたいと思える」方々は、もちろんいらっしゃる。
以前の「玉石混交」とは異なり、ほんとうに信頼できる方々なのである。
でも、広告ビジネスの時代のおつきあいで、その個性と思考と人間性でいまもって敬愛している人がいる。(あのギョーカイの人では稀有な存在である)
アート・ディレクターの東本三郎氏だ。(スコッチ・ウィスキー「カティサーク」の真野響子キャンペーンでご一緒し、成果をあげた)
彼のエッセイ集「人生市場/闇市編・朝市篇」(上下巻)は読ませる。
その「朝市編」から「八月に思い、九月に忘れる」を転載させて頂く。
八月に思い、九月に忘れる 東本三郎
中国の教えにある。どんな物でも美味しく食べるにはどうしたらいいか、との問いに賢人答えて曰く、腹を空かせればよい。腹が空けばどんな食べ物でも人は食べる、そして美味しい。空腹は人間にとって最大の脅威であり、逃れられぬ宿命である。
国が腹を空かせる、空腹となる。故に食物を求めて狂う。これが戦争である。紀元前の昔より、空腹を満たすための戦が繰り返されて来た。現在、国の一番の食物は石油資源である。これがなければ電車は動かず、車は動かず、飛行機は飛べず、電気はつかず、何もかもが中世の昔に戻らねばならない。石油を制すは国を制すである。
アメリカはあらゆる情報を使って神国日本を戦争に誘導していった。鎖国を続けてきた幼稚日本は、外交の術を知らなかったし今なおそれは続いている。島国日本の命の綱、石油をシャットアウトした。日本は飢えた狼の様に手当たり次第にアジアの国に襲いかかった。ここで歴史を語るつもりはない。人は腹を空かすと狂人になるという教訓である。
終戦後、ダイヤモンドとジャガイモが交換され、ルビーと卵が交換され、サファイアと米が交換されていった。国の食物は石油であり、人の食物は自然の恵みが生んだ物であった。一個の卵、一個のカボチャ、一個のトウモロコシのために体を許す母たちがいた。戦争の中で安物にされた尊い命。戦後は尊い命のために、すっかり忘れていた自然の恵みに体を張った。国のためではない。生きるためにである。一丁の銃より一個の卵、一隻の軍艦より一頭の牛、一隻の潜水艦より一俵の米である。そこには思想も、哲学もない。あるのは生きるという人間の本能だ。人間という動物の本能だ。
しかし厄介な事に、人間という動物は他の動物と異なり、空腹を満たした途端によこしまな征服欲が生まれる。神が人間を作ったとしたら、永遠の修羅を作った事になる。空腹が全ての基といえる。ジハード=聖戦と今はいうが、そもそもの原点は日本の神風特別攻撃隊、略して特攻隊である。自爆の元祖である。若き者たちはたっぷりと洗脳、意識は高揚した。何通りも用意された手紙の見本に従い、遺書を書いた。父上さま、母上さま、天皇陛下万歳と。彼らは短期集中洗脳者であった。国もまた、洗脳中毒であった。判断不能、心身不能、理解不能であった。人間は十日間で洗脳できるという。一切眠らせない、同じ言葉を言い続ける。天皇陛下のため、国のため、天皇陛下のため国のため。一日中言い続ける。そして人間爆弾ができ上がる。今も同じである。
人間に空腹がある限り、または満腹がある限り戦いは終わらない。人間という動物の宿命である。永遠に続くのである。人間は獣であるという事を知らねばならない。最も危険な獣である。
毎年八月十五日が近づくと戦争の事が場当たり的に語られる。戦争は、人間が人間である以上終わらない事を前提に考えねばならない。情緒だけを八月にだけ語ってはならない。人間は人間を殺す事に快感を感じる生き物なのである。誰の中にもそれはある。人間が極限に追い込まれた時、いかなる人間にも狂気は生まれ、殺気は生じる。五味川純平が『人間の条件』の中で描いた「カジ」なる人間、「カミ」なる人間は一人もいない。歴史は作った者によって滅ぼされるという。ならば人間社会は人間が滅ぼすのであろう。あるいは神が宇宙の真理に従い、この大宇宙の中の迷える小惑星を一瞬にして消滅させるだろう。その日は明日か、明後日か判らない。いかなるSF映画も及ばない事実と共に消えるのかもしれない。
人は皆、八月に思う。戦争はいけない、と。だがしかし、九月には忘れている。
— posted by 本庄慧一郎 at 11:19 am
「社会&芸能・つれづれ愚差」第5回(通算115回)
2007/4/27
「うさん臭い」教育委員長のこと
以前、ある地方の知人から講演を依頼された。
テーマは「子どもと教育」。ぼくには「ガラにもない」という思いもあったが「ご自身の幼い頃のことを自由に語ってくれればいい」ということなので引き受けた。
振り返ればざっと50年、「物を書く」という生業(なりわい)でなんとか暮らしてきた。
税務申告書では「文筆業」であるが、時と場合によっては「自由業」と分類されることもあった。
しかし最近、テレビのニュースワイド番組などの取材もので、インターネット喫茶の常宿者や、ヨレヨレのホームレスのおやじが「職業は何ですか?」というインタビュアーの質問に「自由業です」と答えるケースが多い。
だいたいは日雇いか、せいぜい「古雑誌拾い」といった男たちがぬけぬけと「自由業です」とのたまうのである。
そこでついぼくは「オレのはちょっと違うぜ」と思わずつぶやくのである。
さて、冒頭の講演の件であるが、その地域の文化ホールの会では地元の老若男女が大ぜい詰めかけていて、まるでなじみのないおエライさんも何人か来ていた。
開会のあいさつに続いて、その市の教育委員会の長が「前座」と自称するスピーチを行った。
その赤ら顔の、タバコ臭そうなずんぐりオジサンは、「現在の子どもに必要なのは道徳教育、いや修身教育であります」と堂々(!)の語り出し。
その主旨たるや……たちまちウンザリ、不機嫌になって、壇上を降りたくなった。なんとか思いとどまって約束の1時間をこなしたが、不愉快と腹立たしさで、当方のはなしも支離メツレツになったね――。
山崎正和中教審会長の「道徳教育は必要ない」
文部科学相の諮問機関・中央教育審議会の会長山崎正和氏は学者として評論家として、また劇作家として着実なお仕事をなさっている方だ。
この山崎氏が「学校制度の中に道徳教育は必要ない」という見解をのべたという。(07年4月27日、朝日・東京新聞他)
この記事を読んで、やはり前述の地方の教育委員長なる男の悪臭ふんぷんたる論旨と、腐りきった保守政治家そのもののようなキャラをすぐ想起したものだ。
それでなくとも、このところ政治や経済などの中枢にのさばる者たちの目に余る道徳欠落、または皆無の「言行不一致」の茶番劇にうんざりしているのだ。
まずソーリ大臣の提唱する「美しい国」と、現行の政策との矛盾と乖離(かいり)は、すでに心ある識者たちの指摘・糾弾するところだ。
この日(4月27日)の同じ朝日新聞に加藤和哉氏(聖心女子大准教授)も、政府の教育再生会議がめざす「道徳教育を教科に」に対して正面から疑義を呈している。
山崎正和・加藤和哉両先生のご意見に文句なしに賛同する。
だいたい、「道徳」を強いる者たちの顔を見たい。それらの者たちの人間としての資質をまず検証すべきである。
きっと、本来の「道徳」という言葉が示す意味や内容とはまったく逸脱したような人物ばかりが浮かび上がってくるはずだ。
つねにお世話になっている「類語新事典」によると――
文筆業(現在は時代小説、これからは劇作も)としては、辞書辞典などは手放せない。とりわけ「類語辞典」はのべつ頁をくる。
たとえば「欺瞞」の項を引く。
騙す、誤摩化す、引っかける、嵌める、陥れる、化かす、詐欺ぺてん、朝三暮四、言いくるめる、瞞着……とあるある、その数、百語を越す。それらの言葉はそっくりすべてが現在の政治・社会に具体的な事象・事件として跳りょうしている。
「性格」の項はどうか。
狡い、老獪、海千山千、悪擦れ、厚顔、鉄面皮、破廉恥、恥知らず、性悪……こちらも、政治・社会のフィールドでもっぱら大活躍の用語だ。
「改正」という名の「改悪」の多数決!
「道徳教育」とは一言でいえば「理想を自覚させる教育」である。
現在、政治の場でリーダー面してのさばる人間の中に「理想を自覚させる教育」を唱導し得る人物がいるとはテンから考えられない。
つまり「道徳」をダレが言うのかが問題なのだ。
遵法精神の欠落している欠陥人間が「法を改正する」としれっとのたまうのは、それこそ「道徳に反する」。
加藤和哉氏の文中に「(道徳という科目を作って、それを成績評価の対象にすれば)生徒たちは与えられた「正解」だけを口にするだけですまそうとする(略)」と論断する。
人間としての勉学は、賞金額と派手で俗悪な演出のテレビのクイズ番組における「正解」と無関係である。
根腐れ感覚と遺物思考のオッサンたちの「暴力的多数決」の横行を絶対に許してはならない。
ほんとうに子どもたちの明日を考え、日本の未来を真摯に考えるまっとうな(!)有識者の皆さん、声を上げて下さい!
無関心、無思慮、無節操、馬耳東風、無自覚、不用意、無意見……といった者たちに揺さぶりをかけて下さい!
山崎和正氏はかつてから「柔らかい個人主義」を提唱しておられた。含蓄のあるいい言葉だ。
「道徳というものは、鼻で人間をあしらう策略の最大のものだ」ニィチェ。
以前、ある地方の知人から講演を依頼された。
テーマは「子どもと教育」。ぼくには「ガラにもない」という思いもあったが「ご自身の幼い頃のことを自由に語ってくれればいい」ということなので引き受けた。
振り返ればざっと50年、「物を書く」という生業(なりわい)でなんとか暮らしてきた。
税務申告書では「文筆業」であるが、時と場合によっては「自由業」と分類されることもあった。
しかし最近、テレビのニュースワイド番組などの取材もので、インターネット喫茶の常宿者や、ヨレヨレのホームレスのおやじが「職業は何ですか?」というインタビュアーの質問に「自由業です」と答えるケースが多い。
だいたいは日雇いか、せいぜい「古雑誌拾い」といった男たちがぬけぬけと「自由業です」とのたまうのである。
そこでついぼくは「オレのはちょっと違うぜ」と思わずつぶやくのである。
さて、冒頭の講演の件であるが、その地域の文化ホールの会では地元の老若男女が大ぜい詰めかけていて、まるでなじみのないおエライさんも何人か来ていた。
開会のあいさつに続いて、その市の教育委員会の長が「前座」と自称するスピーチを行った。
その赤ら顔の、タバコ臭そうなずんぐりオジサンは、「現在の子どもに必要なのは道徳教育、いや修身教育であります」と堂々(!)の語り出し。
その主旨たるや……たちまちウンザリ、不機嫌になって、壇上を降りたくなった。なんとか思いとどまって約束の1時間をこなしたが、不愉快と腹立たしさで、当方のはなしも支離メツレツになったね――。
山崎正和中教審会長の「道徳教育は必要ない」
文部科学相の諮問機関・中央教育審議会の会長山崎正和氏は学者として評論家として、また劇作家として着実なお仕事をなさっている方だ。
この山崎氏が「学校制度の中に道徳教育は必要ない」という見解をのべたという。(07年4月27日、朝日・東京新聞他)
この記事を読んで、やはり前述の地方の教育委員長なる男の悪臭ふんぷんたる論旨と、腐りきった保守政治家そのもののようなキャラをすぐ想起したものだ。
それでなくとも、このところ政治や経済などの中枢にのさばる者たちの目に余る道徳欠落、または皆無の「言行不一致」の茶番劇にうんざりしているのだ。
まずソーリ大臣の提唱する「美しい国」と、現行の政策との矛盾と乖離(かいり)は、すでに心ある識者たちの指摘・糾弾するところだ。
この日(4月27日)の同じ朝日新聞に加藤和哉氏(聖心女子大准教授)も、政府の教育再生会議がめざす「道徳教育を教科に」に対して正面から疑義を呈している。
山崎正和・加藤和哉両先生のご意見に文句なしに賛同する。
だいたい、「道徳」を強いる者たちの顔を見たい。それらの者たちの人間としての資質をまず検証すべきである。
きっと、本来の「道徳」という言葉が示す意味や内容とはまったく逸脱したような人物ばかりが浮かび上がってくるはずだ。
つねにお世話になっている「類語新事典」によると――
文筆業(現在は時代小説、これからは劇作も)としては、辞書辞典などは手放せない。とりわけ「類語辞典」はのべつ頁をくる。
たとえば「欺瞞」の項を引く。
騙す、誤摩化す、引っかける、嵌める、陥れる、化かす、詐欺ぺてん、朝三暮四、言いくるめる、瞞着……とあるある、その数、百語を越す。それらの言葉はそっくりすべてが現在の政治・社会に具体的な事象・事件として跳りょうしている。
「性格」の項はどうか。
狡い、老獪、海千山千、悪擦れ、厚顔、鉄面皮、破廉恥、恥知らず、性悪……こちらも、政治・社会のフィールドでもっぱら大活躍の用語だ。
「改正」という名の「改悪」の多数決!
「道徳教育」とは一言でいえば「理想を自覚させる教育」である。
現在、政治の場でリーダー面してのさばる人間の中に「理想を自覚させる教育」を唱導し得る人物がいるとはテンから考えられない。
つまり「道徳」をダレが言うのかが問題なのだ。
遵法精神の欠落している欠陥人間が「法を改正する」としれっとのたまうのは、それこそ「道徳に反する」。
加藤和哉氏の文中に「(道徳という科目を作って、それを成績評価の対象にすれば)生徒たちは与えられた「正解」だけを口にするだけですまそうとする(略)」と論断する。
人間としての勉学は、賞金額と派手で俗悪な演出のテレビのクイズ番組における「正解」と無関係である。
根腐れ感覚と遺物思考のオッサンたちの「暴力的多数決」の横行を絶対に許してはならない。
ほんとうに子どもたちの明日を考え、日本の未来を真摯に考えるまっとうな(!)有識者の皆さん、声を上げて下さい!
無関心、無思慮、無節操、馬耳東風、無自覚、不用意、無意見……といった者たちに揺さぶりをかけて下さい!
○
山崎和正氏はかつてから「柔らかい個人主義」を提唱しておられた。含蓄のあるいい言葉だ。
「道徳というものは、鼻で人間をあしらう策略の最大のものだ」ニィチェ。
— posted by 本庄慧一郎 at 01:26 pm
「社会&芸能・つれづれ愚差」第4回(通算114回)
2007/4/20
昭和20(1945)年4月の記録と記憶
ぼくは昭和20年は小学6年生。4月に高等小学校(のちの新制中学)に進学した。
が、すぐの4月13日(金)から翌14日未明にかけて、アメリカ軍B29、330機の無差別爆撃が4時間以上あって、父親と8歳下の弟と3人(母親は前年病死していた)で命ひとつで逃げ惑った。
学友の大部分はすでに地方へ学童疎開していた。
滝野川第六小学校全員で30名〜40名ほどがさまざまな理由で「残留組」として東京に居残っていたのだ。
家は当時の北区・板橋区一帯の陸軍造兵厰(兵器製造工場の大集団地)に近く、米軍の爆撃はひたすら熾烈を極めた。
焼夷弾の落下・爆撃の形容を「雨あられのように」などいうが、決してこんな言い方がオーバーではなかった。
焼夷弾の直撃をうけた無惨な屍。頭髪とからだに油脂をあびた者の火だるまの七転八倒。泣き叫びながら水を求めて疾駆する者の熾烈な憤死……。
ぼくら家族はなんとか生きのびた。命ひとつだけの「生存」である。
これらの記憶はいずれ記録として詳細に書きしるす。
それにしても、なんとか「平和」を保っての63年間だったが、いままたどういうつもりか、屁理屈をこねての戦争への傾斜が目に立つ。
この2007年4月という日々は……
都知事選が終わって、キツネに化かされたような思いが遺った。
あいかわらず政治・経済・社会……ひたすら荒れている。
過ぐる4月10日(火)の朝日新聞のコラム「天声人語」でバグダッドが〔陥落〕して丸4年……ということをあらためて思い知った。
そして、そこに引用されている歌人岡野弘彦氏の「砂あらし 地(つち)を削りてすさぶ野に 爆死せし子を抱き立つ母」を読んだ。
その歌集「バグダッド燃ゆ」をさっそく購入した。
「東京を焼きほろぼしし戦火いま イスラムの民にふたたび迫る」など、思わずうなずく歌ばかりが並んでいる。
「天声人語」氏も言う。
「6万という市民が死んだが、最大の犠牲者は、岡野さんも詠んだ子どもたちではないか」。さらに「血なまぐさい日常がもたらす心の傷を思うと暗然となる。平穏な日々が戻っても傷はいつまでも残る。訓練を受けた米兵でさえ、心的外傷のため、帰国後に暴力的になったりする者が後を絶たないのだ」とアピールする。
折しもイラクに新たな爆破テロの惨事が続発している。その惨状は正に戦争そのものの無惨さである。
現在のアメリカには2億丁の拳銃が流布している
折しも、バージニア州の大学で銃の乱射事件があった。その狂気に満ちた事件は「武力や爆薬ですべてを解決する」というアメリカの流儀とイクォールしているはずだ。2億丁の拳銃が日常の生活の中に野放しなっている国は真の民主国家か。
わが日本でも、拳銃を振り回す男に、長崎市長4選をめざす者が選挙演説中に射殺された。
「美しい国」だの「東京再起動」だのというスローガンはともかく、それを主導する者たちの思考の本質はとても信じられない。
すでに殺人と汚職と欺瞞と……ひたすら汚濁にまみれた現世で、高齢者や病人や職にありつけない者たちが悲鳴をあげている。
ゴールデン・ウィークなるバカ騒ぎの季節を迎えるこの4月、やはり63年前のことを否も応もなく思い返す。
歴史や経験に真摯(しんし)に学ぼうとしない人類は……。
くそ。呉越同舟なんて、ほとほとイヤですねぇ。
ぼくは昭和20年は小学6年生。4月に高等小学校(のちの新制中学)に進学した。
が、すぐの4月13日(金)から翌14日未明にかけて、アメリカ軍B29、330機の無差別爆撃が4時間以上あって、父親と8歳下の弟と3人(母親は前年病死していた)で命ひとつで逃げ惑った。
学友の大部分はすでに地方へ学童疎開していた。
滝野川第六小学校全員で30名〜40名ほどがさまざまな理由で「残留組」として東京に居残っていたのだ。
家は当時の北区・板橋区一帯の陸軍造兵厰(兵器製造工場の大集団地)に近く、米軍の爆撃はひたすら熾烈を極めた。
焼夷弾の落下・爆撃の形容を「雨あられのように」などいうが、決してこんな言い方がオーバーではなかった。
焼夷弾の直撃をうけた無惨な屍。頭髪とからだに油脂をあびた者の火だるまの七転八倒。泣き叫びながら水を求めて疾駆する者の熾烈な憤死……。
ぼくら家族はなんとか生きのびた。命ひとつだけの「生存」である。
これらの記憶はいずれ記録として詳細に書きしるす。
それにしても、なんとか「平和」を保っての63年間だったが、いままたどういうつもりか、屁理屈をこねての戦争への傾斜が目に立つ。
この2007年4月という日々は……
都知事選が終わって、キツネに化かされたような思いが遺った。
あいかわらず政治・経済・社会……ひたすら荒れている。
過ぐる4月10日(火)の朝日新聞のコラム「天声人語」でバグダッドが〔陥落〕して丸4年……ということをあらためて思い知った。
そして、そこに引用されている歌人岡野弘彦氏の「砂あらし 地(つち)を削りてすさぶ野に 爆死せし子を抱き立つ母」を読んだ。
その歌集「バグダッド燃ゆ」をさっそく購入した。
「東京を焼きほろぼしし戦火いま イスラムの民にふたたび迫る」など、思わずうなずく歌ばかりが並んでいる。
「天声人語」氏も言う。
「6万という市民が死んだが、最大の犠牲者は、岡野さんも詠んだ子どもたちではないか」。さらに「血なまぐさい日常がもたらす心の傷を思うと暗然となる。平穏な日々が戻っても傷はいつまでも残る。訓練を受けた米兵でさえ、心的外傷のため、帰国後に暴力的になったりする者が後を絶たないのだ」とアピールする。
折しもイラクに新たな爆破テロの惨事が続発している。その惨状は正に戦争そのものの無惨さである。
現在のアメリカには2億丁の拳銃が流布している
折しも、バージニア州の大学で銃の乱射事件があった。その狂気に満ちた事件は「武力や爆薬ですべてを解決する」というアメリカの流儀とイクォールしているはずだ。2億丁の拳銃が日常の生活の中に野放しなっている国は真の民主国家か。
わが日本でも、拳銃を振り回す男に、長崎市長4選をめざす者が選挙演説中に射殺された。
「美しい国」だの「東京再起動」だのというスローガンはともかく、それを主導する者たちの思考の本質はとても信じられない。
すでに殺人と汚職と欺瞞と……ひたすら汚濁にまみれた現世で、高齢者や病人や職にありつけない者たちが悲鳴をあげている。
ゴールデン・ウィークなるバカ騒ぎの季節を迎えるこの4月、やはり63年前のことを否も応もなく思い返す。
歴史や経験に真摯(しんし)に学ぼうとしない人類は……。
くそ。呉越同舟なんて、ほとほとイヤですねぇ。
— posted by 本庄慧一郎 at 04:46 pm
「社会&芸能・つれづれ愚差」第3回(通算113回)
2007/4/13
本庄慧一郎のメモ帳から
「議事堂とは名ばかりで、実は(たんなる)表決堂である」(尾崎行雄/政治家)
「議事堂とは名ばかりで、多数決横暴の館に過ぎない」(本庄慧一郎)
「正直は最良の外交政策である」(ビスマルク/ドイツの政治家)
「ウソ八百は最良の外交政策である」(本庄慧一郎)
「教育の危機は、教育の危機ではなく、生命の危機なのだ」(ペギー/フランスの作家)
「教育の危機は、教育の危機ではなく、偏屈な陰謀家たちの人間社会破壊の暴挙なのだ」(本庄慧一郎)
「弁解は飾られた嘘である」(ホープ/イギリスの詩人)
「弁解は恥を知らぬ人間のたわ言である」(本庄慧一郎)
「愛は一切に勝つ!」(ヒルティ/スイスの哲学者)
「嘘言は一切に勝つ!」(本庄慧一郎)
「世の中は海に似ている。泳げない者は溺れる」(スペインの諺)
「現在の社会は険しい山に似ている。足の弱い者はみな挫折する」(本庄慧一郎)
「世間は、人間の真の値打ちそのものより、値打ちがありそうな人をチヤホヤする」(ラ・ロシュフコー/フランスのモラリスト)
「世間は、人物の真の値打ちそのものより、心にもないウソを出まかせに口にする人をチヤホヤする」(本庄慧一郎)
「幸福な者は、ただの棒を植えてもレモンの木になる」(イタリアの諺)
「不幸な有権者は、いくら心して投票しても裏切りとゴーマンなる為政者にぶち当たる」(本庄慧一郎)
「原子力発電所の周辺には広島の光輪が見える」(ラルフ・E・ラップ/アメリカの科学者)
「原子力発電所の周辺には地球破壊・人間破滅への立て札が見える」(本庄慧一郎)
「議事堂とは名ばかりで、実は(たんなる)表決堂である」(尾崎行雄/政治家)
「議事堂とは名ばかりで、多数決横暴の館に過ぎない」(本庄慧一郎)
○
「正直は最良の外交政策である」(ビスマルク/ドイツの政治家)
「ウソ八百は最良の外交政策である」(本庄慧一郎)
○
「教育の危機は、教育の危機ではなく、生命の危機なのだ」(ペギー/フランスの作家)
「教育の危機は、教育の危機ではなく、偏屈な陰謀家たちの人間社会破壊の暴挙なのだ」(本庄慧一郎)
○
「弁解は飾られた嘘である」(ホープ/イギリスの詩人)
「弁解は恥を知らぬ人間のたわ言である」(本庄慧一郎)
○
「愛は一切に勝つ!」(ヒルティ/スイスの哲学者)
「嘘言は一切に勝つ!」(本庄慧一郎)
○
「世の中は海に似ている。泳げない者は溺れる」(スペインの諺)
「現在の社会は険しい山に似ている。足の弱い者はみな挫折する」(本庄慧一郎)
○
「世間は、人間の真の値打ちそのものより、値打ちがありそうな人をチヤホヤする」(ラ・ロシュフコー/フランスのモラリスト)
「世間は、人物の真の値打ちそのものより、心にもないウソを出まかせに口にする人をチヤホヤする」(本庄慧一郎)
○
「幸福な者は、ただの棒を植えてもレモンの木になる」(イタリアの諺)
「不幸な有権者は、いくら心して投票しても裏切りとゴーマンなる為政者にぶち当たる」(本庄慧一郎)
○
「原子力発電所の周辺には広島の光輪が見える」(ラルフ・E・ラップ/アメリカの科学者)
「原子力発電所の周辺には地球破壊・人間破滅への立て札が見える」(本庄慧一郎)
— posted by 本庄慧一郎 at 05:09 pm