一通の手紙から始まる


樋口恵子さんへの手紙

 テレビのワイドショーとやらの番組には、評論家と称する方が大勢出演なさっている。ヒョーロンカというよりヒョーロクダマといったほうがいい雑感屋ばかりだ。しかも皆さんエラソーに喋っている。
 さてここでは、4分の1世紀以前からの知己、社会評論家の樋口恵子さんのことにふれてみたい。
 いま樋口さんは、婦人問題、高齢者福祉問題、教育問題と幅広く活躍する「信じられる評論家」である。樋口さんとは、彼女が東大の学生だった20歳のときに知己を得た。
 それはたしか読売新聞が主催した成人の日(当時は1月15日)を記念する「はたちの記」の論文募集で樋口さんが学生の部第一席になられたことがきっかけだった。
 昭和26(1951)年のことである。樋口さんは旧姓柴田さんといった。
 わたしは便せん10数枚に感想をしるして送った。そのころのわたしは、身辺事情から進学を断念、父親の仕事をいやいや手伝いながら演劇を志していた。その苛立ちや、学生に対するある種の羨望が入りまじった、少々偏屈な意見だったといまにして思うのだが。
 しかし、樋口さんからは謙虚で柔軟性に富んだご返事が届いた。
 いま手元に樋口さんがご恵贈くださった著書がある。(「私は13歳だった/少女の戦後史」筑摩書房)そのご本に私との出会いのことがしるされているので引用させて頂く。 (文中の望田市郎はわたしの本名である)

以下「私は13歳だった/少女の戦後史」筑摩書房より引用

「青い実の会」とのであい
 はたちの記念に投稿という決意表明をしたのはいいが、だからといって自分の行き方が確立するはずもなく、あいかわらず浮き足立った迷いの日々の連続だった。メディアの少なかった時代、周辺「学内有名人」になってしまい、みんなに「おごれ」「おごれ」といわれたのがオチであった。「幼稚っぽいこと考えてるんだなァ」と軽蔑のまなざしを向ける仲間もいて、今後、金輪際投稿のようなことはするまいと、心から誓った。
 とはいえ、今となってはいくつかの副産物があった。全国からの感想文が、ファンレター的なものから辛口批評まで、優に段ボール箱一つ分届いた。みんな目を通し、心に残った手紙には簡単な礼状を書いた。その中で、本ものの論文以上に力を入れて返事を書いた手紙があった。望田市郎という、四角い文字の手紙は、私と同年、つまりはたちを迎えた青年からのもので、高等小学校(今の中学と思えばよい)を卒業後、町工場で働く労働者と名乗っていた。私は「あなたのお便りに、お調子ものの私はガーンとハンマーで一撃を食らった思いでした」と書きはじめた。

重要なきっかけ
 「青い実の会」とはいわば文学サークルのようなもので、小学校の同期生を中心にした集いであった。
 わたしはいまもって《毛並み》とか《育ち》といった言葉が嫌いだが、しかし、樋口さんからのお手紙の文章を読んでいて、その嫌いな二つの言葉を、あらためて羨望をまじえた気持ちで反芻したものだ。
 このひとは《聞く耳を持っている》ということも強く心をうった。
 次回でもう少し樋口さんの文章を紹介させて頂くが、樋口さんはもうひとつ、わたしに《重要なきっかけ》をプレゼントしてくれたのである。

— posted by 本庄慧一郎 at 08:15 am  

“ひとりぼっち”それも楽しみ


人のいない場所へ

 わたしの趣味は「墓参り・病院通い・仕事」とは前にものべたが、それは別にウソをついたり、妙に気取っていってるわけではない。

 たとえば「墓参り」にしても、片寄った宗教心があるとか、変質的に霊魂を気にしているからではない。

 東京郊外の「トトロの森」続きの高台にある先祖の墓を汗水たらして清掃したあと、クイとあおるビールのうまさの魅力にひかれての行為でもあるのだ。
 でも、その一方で「やたら群れたがる日本人」に嫌悪していて、あえて墓地のような人のいない所へ出かけるのである。
 それにしても日本人は群れたがる。
 年の暮れや正月、そして盆という時季、また夏休みの旅行シーズンとやらには、ひたすら群れる。
 かと思えば、ラーメン屋とか回転すしとかタコ焼屋などの店にまで列をつくる。それほどにして食うものか、と思う。
 つまり、ヒマとカネを浪費したがる人間がワンサといるのだ。
 若者たちの携帯電話での愚にもつかないお喋りも「ひとりぽっち恐怖症」患者だ。
 そのくせ、家族やまわりの人たちを大事にしない。こまやかな心くばりを怠る。いや、むしろ、ないがしろにしたりイジメたりするのだ。

霊園でのひととき
 わたしの物書きとしての師匠三好十郎さんの墓地は多摩霊園にある。時間ができるとポケットウィスキーをザックに入れてふらりと立ち寄る。季節の風と光と小鳥と、故人への思いで、心が和む。癒される。
 昨年の晩秋、旅行などにはとんと出かけることのないワイフと、まるでご縁もない小平霊園に出かけた。コンビニでワンカップ大関とポテトチップスと折詰寿司を求め、目と心にしみる鮮やかな紅葉を眺めてきた。文句なしにいい時間だった。
 そして、前述したようにわが先祖が眠る狭山湖畔霊園だがこれはもう定期便コースだ。
 ときどき孫も連れて行って、ついでに西武園の展望台やらマシーンに乗ったりする。
 冬などの寒い季節はもっぱら単独行になるが、墓地に人かげも少なく、ベストの気分だ。

心を深呼吸させる
 ふとみれば、ロックシンガーの尾崎豊クンの墓がある。大きく立派な造りである。いまは成人してパソコンでデザインの仕事をしている伜(このホームページを立ちあげてくれた)がたしか、CDや詩集を愛していた。
 丸っこい自然石の墓は、下町情緒の横溢するマンガを描いていた滝田ゆうサンのもの。
 お酒好きだった人だが、いまはもっぱら爽やかなおいしい空気をたっぷり味わっているようだ。そうそう、画家のいわさきちひろさんの墓もあった。

 直接会ったことはないが、あれこれの人に想いをはせるひとときは、快く和むものだ。

 皆さんにおすすめしたい。たまには、アリのように群れるのをやめて、ゆったり心を深呼吸させる時間をつくりなさい、と。 「人間はだれもひとりで生まれてきて、またひとりであの世に旅立ってゆく」などという言葉を持ち出すこともないが・・・・。 
 それにしても、ともう一度いう。いま盛り場にむやみに群れ動く人たちはすべて「ひとりぽっち恐怖症」というビョーキだ。いずれもっともっと孤独になる。要注意ですぞ。

— posted by 本庄慧一郎 at 07:58 am  

趣味は墓参り、墓地は健康ランド


緊張を得られることは健康である

 ゴーリキィの「どん底」という芝居がある。その中のせりふに「仕事が楽しみなら人生は極楽だ。仕事が義務なら人生は地獄だ」というのがあった。
 極楽なんていう所にまだ行ったことがない。だからどんなに素晴らしい所なのか実際には分からない。
 しかし、仕事が好きで楽しいといっても、酒を呑んでうまいもの食ってゴロゴロしているような《極楽》ではない。仕事となれば勉強もするし努力もする。緊張もするし神経も使う。
 ただ、イヤな仕事を続けるための不快な我慢や忍耐はない。
 最近はだれもが「ストレス」を言う。すべてマイナスの意味で使う。本来、ストレス=緊張は人間にとって必要不可欠なものではないのか。緊張することの出来ないからだや感情や顔の表情は、むしろ重大なビョーキだ。
 タイムリーで適宜な緊張を得られるということは健康なのである。それを忘れている。

創造性のあるエネルギー
 どうやら皆さん、イヤな仕事、嫌いな職業、そして気の合わない同僚、居心地の悪い職場にいるかのようだ。その証拠にすぐ「ストレス解消」を口にするのではないか。
 酒も、カラオケも、パチンコも、ゴルフも、旅行も、競馬競輪も、なにもかも「ストレス解消になるから」とのたまう。アッケラカンとして遊べないのはお気の毒だ。
 ストレスというマイナスの穴を埋めるのに汲々としているとしか見えない。
 カネと時間を費やして、やっとマイナスの穴を埋める。となると、つまるところ、プラスの前進は期待できない。

 やっぱりカネと時間を費やして好きなことをやるなら、アクティブな創造性のあるエネルギーを獲得しなければ意味がない。面白くない。

 たとえば「ストレス解消のため」と言いわけしながら、酒を呑みすぎ、胃や肝臓を病んだり、糖尿病で苦労している人もいる。

 競馬競輪で大赤字を出してサラ金に追い回されている者もいる。どでかい新しいストレスを背負ったことになる。ご苦労なことだ。

趣味はと訊かれれば?
 わたしにはとりたてての趣味がない。
 映画を観る。演劇を観る。コンサートやライブによく出掛ける。写真や絵画の展覧会もこまめに観る。
 自分でも時代小説など書くから、本はよく買う。
 ザックを担いでの古本屋めぐりが大好きだが、考えてみるとこれらのことはみんな、仕事の役に立つことばかり。仕事の一部なのだ。
 酒は10代の終わりから長いこと呑んできた。劇作家だった叔父小沢不二夫の家には、著名な作家や俳優がのべつ来ていた。
 酒呑みが多かったから、無理に呑まされることがよくあった。でも結構強かったので、奨められるとカポカポ呑んだ。
 近頃は加減して、ほどほどにたしなむ。
 肝臓もまあまあ。糖尿の気はない。血圧はちょっと高めだったので、小粒の薬は常用している。130に80といったところだ。3か月おきに定期検診を欠かさない。
  だからあえて最近は「趣味は?」と訊かれるとこう答えることにしている。
  「一に墓参り、二に病院通い、三に仕事」
 皆さんイヤな顔をする。たしかに厭味に聞こえる言い草だなあ。心ならずも反省する。

— posted by 本庄慧一郎 at 07:21 am  

あの人もこの人も有名になった


ラジオドラマ“風雲黒潮丸

 なにしろ、原稿用紙の使い方もろくに知らないニイちゃんが、叔父小沢不二夫の導きでとにかく放送作家らしきことを始めた。
 叔父は「月の影法師」とか「風雲黒潮丸」といった人気ドラマを書いていた。ラジオが愛聴されている時代だった。
 この時、新人歌手としてデビューしたばかりの島倉千代子サンが歌と役で出演している。 たしか手元に、録音スタジオの扉の前で台本を手にした初々しい彼女の写真がある。
 そして、美少年だった(?)津川雅彦サンも出演していた。 「風雲黒潮丸」は当時、中村(萬屋)錦之助、大川橋蔵、東千代之介らと並んで東映美剣士として人気を集めていた伏見扇太郎の主役で映画化されている。

叔父が脚本を担当した番組
 こうしたドラマ作りの現場は、熱気にあふれていて、きわめて刺激的だった。
 そういえば、まだ有楽町にあったラジオ東京(現TBS)で、叔父小沢が脚本を担当していた「鶴田浩二アワー」「淡島千景アワー」などという番組もあった。
 鶴田浩二も淡島千景も燦然と輝く映画スターだった。その脚本も手伝った。
 淡島千景さんの「唐人お吉」を書いたのをしっかり記憶している。
 ニッポン放送では、その後、政治家の奥さんにおさまった司葉子さんの文学作品を朗読する番組の脚色を担当した。
 彼女もスターだった。美人だった。
 庄野潤三の作品だったか、文章の中に「肘鉄砲」という言葉があり、彼女は「マタデッポウ」と誤って読んだ。
 スタジオ内でのエピソードとしてある新聞の芸能記者についもらした。たちまちコシップとして書かれた。 「近いうちに家へいらっしゃいね」というお招きは、ついに実現しなかった。

本名の必要のなくなった人間
 日本放送作家組合と言う団体がある。その発会式が東京有楽町にあったビデオホールというところで行われた。
 昭和34年9月18日のことだ。
 その時の記録写真の座席の最前列には、舞台やラジオ(テレビはやっとスタートしたばかりだった)で健筆をふるっていた先輩作家たちが居並んでいる。
 叔父小沢不二夫をはじめ、劇作家の八木隆一郎、大垣肇さんなどなどがいる。
 たまたまその写真に、スリムなわたしが兄弟子だった宮本京二サンと写っている。
 われわれの前列には、若き日の野坂昭如サンの顔もある。
 芒々、42年の歳月が流れている。
 そういえば、叔父小沢不二夫も八木隆一郎さんも、大垣肇さんも亡くなった。
 映画黄金時代の中村錦之介、大川橋蔵、東千代之介、伏見扇太郎・・・・すでに逝った。 「名声ののちにあるのは忘却である」と先人は言う。でも思いでの中に彼らは生きている。「有名人とはなんだろうか。本名の必要のなくなった人間である」とはカミユの言葉だ。

— posted by 本庄慧一郎 at 06:12 am  

親父の都々逸(どどいつ)


都々逸を息子に教える親父

 昭和20年までの軍国時代には、職業選択の自由なんてまるでなかった。
 いまは、法律を侵犯しない限り、どんな商売もできる。

 フリーターなどという職業(?)もある。一定の職業に従事することが嫌いな人たちだ。

 その点、才能の有無は別としてわたしはまあ、好きなことを仕事にできたようだ。
 影響としては、母方のきようだいたちが芸能志向だったことだ大だった。が、じつは父親も役者になりたくて、商家だった家を飛び出している。
 二十歳のころ、この親父が「酒を呑むようになったら都々逸(どどいつ)の一つも唄えなきゃダメだぞ」と言ったものだ。
 埼玉県本庄の生まれだったが、角帯に雪駄など履いて、江戸っ子ぶっていた。
 ♪この道を 行けば近道 わかっちゃいても 行けば別れが早くなる〜
 なんて都々逸を息子に親父が教えるのだ。これでは、銀行員や公務員を志すわけがない。とてもカタギの職業は無理だ。

 角帯を前で結んでうしろに回すと、「おい、ヤボ天、なにやってるんだい」と言うのだ。

 この親父、結局は役者になれずじまいだったが、自作の落語や講談まがいのはなしで、敬老会や老人ホームを得意になって回遊していた。

叔父に弟子入り志願
 なにしろ、小学生のころは戦時下で、東京の学校は空襲、爆撃に晒され、学童疎開などで勉強どころではなかった。教科書すらなかった。
 その分、叔父の書棚の本を漁った。尾崎紅葉の「金色夜叉」を読み、林不忘の「丹下左膳」を斜め読みするという乱読である。
 学校・学業とは縁遠いところを歩いていた。幸か不幸か分からないが、試験とか進学とかで悩まされたことは皆無だ。
 二十歳過ぎたころ、叔父の家に弟子入り志願した。叔父、甥の関係ではなく書生として住み込んだのだ。

 書生だから、掃除もした、雑巾がけもする。犬の世話から、幼いイトコたちの面倒もみた。

 やがて、叔父であり師である小沢不二夫の仕事を手伝う機会を与えられた。
 当時、ニッポン放送をキイ局に全国放送していたラジオドラマ「サザエさん」の脚本をカゲで書かせてもらえることになったのだ。
 書いたものが電波にのって全国に流れるのである。小便をチビルほど嬉しかった。

小沢家にできたけい古場
 そのころ、叔父と叔母(若いころ新宿ムーランルージュの舞台に立っていた)の肝入りで、小沢家の庭に演劇道場のけい古場ができた。
 かなりの出費を覚悟した上での演劇塾だった。
 4、50名の塾生がいた。
 エライ先生方が講義に来て下さった。
 六代目菊五郎の舞台脚本を書いていた宇野信夫先生をはじめ、それこそ現役第一線の劇作家先生が顔を見せた。紀伊国屋書店初代社長田辺茂一さんなど有名人もいた。からだが震えるほどに緊張もし興奮もした。その体験は財産である。
 そういえば塾生の中には、あの三田佳子サンもいた。高校三年生だったか。その後、皆さん、お世話になった小沢家には一顧だにしないようだったが・・・・。
 受けたご恩はさっさと忘れるのが世の常だ。

— posted by 本庄慧一郎 at 05:53 am  


*** お知らせ ***
自主CDを制作
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平和を願う歌
「鳥になれたらいいね」
総合プロデュース:本庄慧一郎
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