「ニッポンの芸能人」シリーズ77
2006/10/13
三谷幸喜さんの「笑いの大学」が動機になった
そろそろ2年になるか。つまり2004年の師走12月に、三谷幸喜さん原作・脚本の映画「笑いの大学」が封切られた。
初日第一回目を観るために早起き(?)して、新宿に出かけた。
複数の映画館のあるそのビルに人だかりがしていた。
さすが三谷作品! と感嘆した。が、ほとんどの人は「ハウルの動く城」の観客と知った。「笑いの大学」の入りは、ぼくにはほどほどで、イライラせずにすんだ。
この作品は昭和15(1940)年、日本が第二次世界大戦へと転がり落ちてゆく「危険な時代」を背景にしている。
榎本健一と並んで、日本のコメディの主流をなした古川ロッパの座付作者と警視庁保安課の検閲官のやりとりをカリカチャアして描いている。
「一人は笑いを愛した。一人は笑いを憎んだ。二人の友情が完璧なコメディを創り上げた」(パンフレットより)となる。
原健太郎氏による「エノケンロッパとムーランルージュの三国史」という文章がパンフレットにのっているが、ぼくの小説としての第一作は「赤い風車劇場の人々」(影書房1992年)で戦前の新宿ムーランルージュのことを書いた。座付作者として叔父・小沢不二夫が活躍していたのだ。
それで「笑いの大学」のテーマになっている当時の言論統制のための検閲制度については小沢不二夫から体験談を聞いていた。
ということで、「へえ! 若い三谷さんがこんなネタで書くのか」と大いに刺激された。同時に「ボヤボヤしていられない」と呟いて、なんとか時間を割いて、舞台脚本「大都映画撮影所物語」を書き上げた。
そしてさっそく、劇団テアトル・エコーの熊倉一雄さんにプレゼンテーション。
ぜひ芝居のホンを! というぼくの希望はざっと2年後の06年11月22日〜12月6日の恵比寿エコー劇場で上演されることになった。
時代小説と共存させたい舞台オリジナル脚本
小説第一作「赤い風車劇場の人々」は原作提供というカタチでピープルシアターによって2度舞台化された。
昭和20年5月の空爆で爆撃炎上する新宿の劇場と劇団員たちの物語だが「大都映画撮影所物語」ともども芸能界を素材にした作品。
近々、戦前か戦後すぐの浅草を素材にコメディを書く予定だ。
文庫書き下ろし時代小説と平行して、舞台のコメディはすでに10企画以上を用意してある。「赤い風車劇場の人々」も是が非でもおのれの手で脚本化して舞台にかけたいと熱望している。
こんどのテアトル・エコーの「大都映画撮影所物語」は〔ぼくのもうひとつの出発〕と位置付けている。キザとそしられるのを百も承知でいえば、なんとか「シンのある笑い」のあるコメディを書いていきたい。
なにしろ、同時代の、あるいはぼくと前後する諸氏諸兄姉のようなそれらしい趣味がない。世界旅行もグルメもゴルフもギャンブルも直接的な興味がない。書く、表現するということにしか心が向かない無粋なヤカラだが、つい先日の東京新聞の記事(10月11日の朝刊と夕刊)のように書いていただいてとてもうれしい。
これからも「上質の楽しいエピソードを共有できる人たち」と仕事をしていきたい。
— posted by 本庄慧一郎 at 08:09 am
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