昭和初期の日本映画の猛者・河合徳三郎!
このところ十年ほど、「文庫書き下ろし」と名付けられた時代小説を書いている。
その合い間に念願の舞台のオリジナル脚本(「大都映画撮影所物語」――テアトルエコー公演)を書き、好評をいただいた。
その大都映画のことを「実録」として書いたらという注文があり、社長であった河合徳三郎氏のことをずっと調べてきた。
河合徳三郎氏についての資料は少ない。
子孫の方々にもお会いしてあれこれお話を聞いている。
この河合徳三郎氏は、大正から昭和初期にかけて、……つまり、独自の個性と驚異的な制作パワーで、サイレント映画からトーキーへの日本映画の発展期に一時代を画した大都映画を精力的に牽引するのだ。なにしろこの男の人物像がとにかくおもしろい。
土建業を生業とし、博徒として名を馳せ、任侠道を貫いた男!
まず、右翼の大物の頭山満をすえて大日本国粋会という結社創立に尽力するが、その後、脱退して大和民労会という団体を組織する。
その最盛期の構成員は三十万と号した――というデータがある。
任侠――強きをくじき、弱きを助けるという彼のコンセプトは、大正10(1921)年代には労働社会大学を、無産階級の医療のための慈善病院などでしっかりと具現化されている。
さらに東京府会議員をつとめ、民権新聞社主としての活動もしているというデータ(「ヤクザ・流血の抗争史」洋泉社)もある。
さらに「義侠ヤクザ伝/藤田卯一郎」(山本重樹)や「ヤクザの死に様/伝説に残る43人」(同――いずれも幻冬社アウトロー文庫)にも河合徳三郎は登場するが、ただのヤクザ者ではないようだ。
河合徳三郎の子孫の方に聞いた話では、当時の自宅に近い鴬谷(現在のJR鴬谷駅)では、ほとんど毎日のように食うや食わずの貧しい者たちに炊き出しをていたとか――。
加えて、現在のJR鴬谷駅前の線路を渡る陸橋の建造に尽力をし、また四十七士の泉岳寺の山門わきの堂々たる大石良雄像建立の発起人代表としてその名を残している――。
しかも、その後の河合徳三郎は、最盛期の昭和10年代のはじめには年間100〜110作品を制作する大都映画を率いて(つまり制作プロデューサーとして)大活躍するのである。
エネルギッシュで多様な河合徳三郎の人物像はきわめて魅力的で興趣はつきない。
この「河合徳三郎の大都映画」に、なんと小生の叔父たちが4人もかかわっていた。
この秋はこの「実録大都映画」の執筆に集中する。
乞う、ご期待!である。
前出の「ヤクザの死に様」の一節に、著者山平重樹氏はこう記している。
「政治家と浪人と任侠の道に生きる者は、死後財産が残っているようでは本物ではないと言われたものです。こんな話は今の政治家には通用しませんが、小生は、いわゆる浪人と任侠の道に生きる人々だけはそうあって欲しいと思っているのです」
強きをくじき、弱きを助けるココロを忘れて、ただ暴力と利権に狂奔する連中と、「格差はあたりまえ」などとうそぶきつつ、○○派、××派と、公然と勢力争いに血まなこの政治屋(!)のうろつく昨今に、あらためてうんざりしますなあ。
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