墓参は慕参である
春夏秋冬、季節が変わるごとに、先祖の墓に詣でる。
いや、墓参を名目に、その季節の風や日ざしや、郊外の風景を楽しみ、のんびり時を過ごすのがならわしなのだ。
所沢の向こうの〔ととろの森〕に近い小高い丘の上の公園墓地だ。
もともとの先祖ゆかりの地は埼玉県本庄市。苔むした十数個の代々の墓石は、かつて〔土葬〕であったこともあって、土台が陥没したりして大改修が必要であった。
そこで菩提寺に相談して、墓地をお返しして、自宅に近い公園墓地へ引越をしたのである。
まんが家の滝田ゆうさん、画家のいわさきちひろさん、そして歌手の尾崎豊さんの墓もある晴れ晴れと明るくさわやかな自然に囲まれた環境で、いつもワイフとルンルン気分で出かける。
雑草をとり、樹木にハサミを入れ、墓石を洗い、花をかざり、線香をともす。
こんなセレモニーのあと、持参のビールやポケットウィスキーを供える。
もちろん即、ぼくが呑む。うまい!言うことなしである。
墓参は先祖供養というより、わが夫婦のお手軽なピクニックなのだ。
もちろん、死者の霊を悼み慕う気持ちもある。
でも、新井満さんの「千の風になって」ではないが
「そこには私はいません。眠ってなんかいません」というコトバのとおり墓は墓にすぎないとも思っている。
でも、季節の風に吹かれ、明るい日ざしをあび、素直な気持ちで手を合わせていると、やはり気持ちがいい。こんなにいい気分を味わえる場所はほかにないなあと、しみじみ思うのだ。
いまの自分(たち)、これからの自分(たち)を思う
マスコミ業界で生きてきた。ずいぶん多くの人たちとかかわって仕事をしてきた。
いまは小説書きだから、無理して多くの人とつきあうことはない。
すんなり分かりあえるごく少数の編集者と、ほんのひとにぎりの友人・知人がいればそれで十分だ。
墓の前に立っていると、ゆっくり自分のことを省みることが出来る。
これからのことに思いをはせることができる。
いままでの、ただワサワサとひたすら忙しがっていたン十年が遠くに見える。やはり、離脱してよかったとしきりに思う。
「墓参」を「慕参」と言い替える。
父や母や、先祖の人たちを思い慕う。
ふり返ってこのぼくがあの世にいったら、慕ってくれる者たちがいるだろうか……などとも考える。
いやいや、慕ってもらえる人間でありたいと、けなげにも念ずるのだ。
いい家族がいる。みんながほどほどにしあわせであれば言うことはない。
こういうもの思いにひとときを過ごすというのは、とても心とからだによい。
また、もりもり仕事をする意欲がわいてくる。単純なのである。
持参のビールやポケットウィスキー(実は焼酎)にたちまち快く酔う。
所沢の居酒屋での昼間からのひととき
以前よく、12月初旬の「秩父の夜祭り」に出かけた。
宵のうちに所沢に着いて一杯のむ。祭りのピークは9時過ぎだからだ。所沢の路地の奥の大衆食堂がお気に入りだったが「なんでもあり」のその店が閉店した。
でも、新たに「なんでもあり」のお店を発見してその店に寄るのがうれしい。
昼間からワイフ相手にカパカパのむ。店の名は「百味」という。
働き者のオバサンが大ぜいいて、チャーミングな若い女の子も感じがいい。
墓参というイベントは、いまのぼくにとって文句なしに楽しい。
グダグダと街で遊ぶくせに、まるで墓参りなどしないという者も多い。でも「千の風に吹かれる」というのを忘れないほうがいいですよ、皆さん!
それにしても、いまの世の中、ウソつきと強欲と、そして非常識とエテガッテと……どうなってんのかね。
先祖の霊がそこにいる、いないは別にして、墓の前にじっと立ってごらんなさいよ。
え? 忙しくてそんな時間ない? 来世はロクなことないよ。覚悟しておいたほうがいいねぇ。
……なんて、エラソーなこと言ってみた!
さて、この10月は、新書版一冊、きちんと書き上げるぞ。
この記事に対するコメントは締め切られています