古書店の倉庫のような仕事場には、雑誌「演劇界」をはじめ、さまざまな演劇雑誌と各種演劇公演パンフレットが山のようにある。
たとえば昭和35年(1960)12月の明治座・新国劇のパンフレットがある。12月5日初日〜27日千秋楽の演目は、昼の部北條秀司作・演出「黄塵」/行友李風作「極付 国定忠治」。夜の部が小沢不二夫作・演出「石狩の空に」/E.ロスタン原作「シラノ・ド・ベルジュラック」より「白野辨十郎」である。
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「石狩の空に」の作・演出の小沢不二夫(1912〜1966)は叔父で物書きとしての師でもあった。この作品は、小沢が新国劇のために書いた作品「おもかげ」と「黒い太陽」に続く三作品目である。
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昭和33年(1958)に、緒形拳は新国劇に研究生として入団。〔その他大勢〕だった緒形拳を抜てき、「石狩の空に」の「次男明良」という役を演じさせている。緒形拳の〔役名のある事実上の初舞台〕であった。同パンフレットに当時の日刊スポーツ文化部の演劇記者・千野幸一氏が次のような一文を寄せている。
「久しぶりの小沢作品『石狩の空に』」
こんなエピソードがある。或る日、芝居が終わって辰巳が楽屋にもどってくると、研究生の緒形拳という内弟子に「きょう先輩、キッカケをトチリ(しくじり)ましたね」といきなり気色ばんだ口調でいわれた。
思いあたるところのない辰巳がケゲンな顔で、よくききただしてみると、こうだ。緒形が辰巳と一緒に舞台に出る場面で(無論緒形はセリフもないような端役である)階段を降りてくる辰巳の足が、一歩早すぎたというのだ。「おかげでぼくの芝居はめちゃくちゃになってしまいました」と緒形少年は怒っているのである。これには辰巳もさすがにあきれて、馬鹿々々しくさえなってしまったが、緒形の真剣な顔をみているうちに、だんだん嬉しさがこみあげてきて困ったということだ。 この話をきいてきた作家の小沢不二夫さんが「全く新国劇というところは嬉しい劇団ですね」といつかしみじみと話していた。(後略)
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ぼく本庄慧一郎は叔父小沢不二夫作・演出「石狩の空」の舞台けい古で、花道の〔かもしかのようにしなやかな〕学生服の緒形拳をじかに見ている。緒形拳23歳。純白のバスケットシューズを履いた、顔の小さいスレンダーな緒形拳を、「あいつきっと伸びるよ」と小沢不二夫が呟いたのを、しっかりと覚えていた。
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叔父小沢不二夫は昭和41年5月15日に作家としてはこれからという享年54歳で亡くなった。練馬区関町の自宅の葬儀では、ぼくは涙をこらえてその葬送作業を一生けんめいにつとめた。 芸能界の多くの方々、作家の方々がご焼香においで下さった。
辰巳柳太郎さんに従う緒形拳さん。ご焼香の順番がきて祭壇の前に立った彼は、いきなり「小沢先生!」と叫んで号泣したのだ。
それまで粛々と進行していた葬儀はその絶叫をきっかけにいっぺんに参列者の激しい嗚咽で包まれ、収拾がつかなくなった。
冷静な葬儀屋さんも取り乱していた。(この項、次回に続きます)