(前回のつづき――順不同。敬称略で失礼します)
広告業界で活躍中の能丸裕幸、青木勤ご夫婦、武部守晃。
本公演の企画協力者・永田哲朗と並ぶチャンバラ映画・時代物小説の評論家・寺田博。
日本大学芸術学部教授・田島良一(映画文献資料研究会代表)。噺家・桂喃々、同じく初音家左橋。
そして俳優の皆さん、冨田祐一、藤井美恵子、小島俊彦、桐山里昇。時代物映画研究史家・綱島吉郎。マスコミ評論・山家誠一。
ソプラノ歌手・木山みづほ。ピアニスト・山川由紀子。フォトグラファー・あまのとしや。元コマ劇場のプロデューサー・伊藤和夫。芸能史家・本地陽彦。デザイナー&イラストレーター・谷口純平。チャーミングな編集者・白井麻紀子。デザイン・アトリエ経営の才媛・近藤可奈子。ぼくが去年大病して、なおかつ完全復活した折のリハビリ療法師の下田明美、柴田みかさ両恩人。
きわめてユニークな事業家・河野哲丸、永井英世、池田久夫。広告界の朋友・三村信也、宗形英作のご夫妻。
信頼のおける友人たち、岡本正安ご夫妻、志村武男、木佐森隆平、奥薗守、三橋寛、高妻常男ご夫妻。星偉夫、海老坪正子、府川雅明。編集者の遠藤美保、伊熊康江。さらにかじ川健、横山一、土井洋彦、藤田和美ご夫妻、水田好信ご夫妻……すべての皆さんがぼくの理解者でありシンパなのです。
さらに現在進行形のグッドフレンド木村聖哉、青木英明、志田盛弘、田島正夫の皆さん。
すべてのお名前を書くと総勢で180名を越えるというわけで、ひとまずここでしめくくらせてもらいます。(お名前をしるせなかった皆さん、ごめんなさい!)
お客様からのアンケートを拝見。つい涙が出てしまうようなウレシイことばが並んでいます。今後の創作活動のカテにします。
もうひとつ、音楽担当の園田容子さんからの「大都映画撮影所物語」に関する音楽のCDが届きまして。よく出来たサウンドで、あらためて園田ファンになりました。
ボクハ、シアワセダナ〜!の2006年師走です。
「ニッポンの芸能人」シリーズ86
2006/12/15
(前回のつづき)
とにかく大勢の友人・知人、そして先輩方が、エコー劇場に来て下さった。(以下、順不同・敬称略でご紹介したい)
戸舘正憲&石井小夜子――平和と人権問題・青少年問題と取り組む真摯でまじめ(!)な弁護士さん。こういう弁護士さんは大好き。
渡辺洋・小百合ご夫妻――ご主人はホホバオイルの化粧品を扱う立志伝的ファイター。奥さまはとびきり若くて美人の良きパートナー。
島野功緒・奥さま――ご主人は芸能史家・評論家&新聞コラムニスト。その舌鋒鋭く、論旨明解。奥さまはこれまた(!)美人。
ふじやま竜――「大都映画撮影所物語」公演に先だって、時代物演技の所作などをコーチして下さったベテラン俳優。一色涼太・山口隆――個性派舞台人。
岡田一利――マスコミ業界の先輩だが、彼の父上は、日本映画界の名バイプレーヤー・瀬川路三郎。現在の岡田一利もいい顔をしている。
大山勝美――テレビドラマの名作「岸辺のアルバム」「ふぞろいのリンゴたち」などの実力派ディレクター。小生のアコガレのお方。
伊藤アキラ――CM業界の雄。(優!)とくに曲の付くコトバをせっせと書く。たとえば「はたらくクルマ」なども子どもたちに愛された。
鈴木武男――コマーシャル・フォトグラファー。着実にいい仕事を重ねる小生の大事な友人。
岐部たかし――画家。女性のファンが多い、ビューティフルでソフトな画風で売れっ子。
舩水京子――琵琶奏者として、またさまざまな表現手段を駆使するスーパー・ウーマン。
坂井てい――ベテラン校正者。心こまやかでチャーミングなお方。
松田満恵――同じくベテラン校正者。ワイフを通じてのおつきあい。
田場洋和・祥子ご夫妻――平和のために活動する健やかなご夫妻。
森川澄子――チャーミングなキャリア・ガールのOB(?)。この方とは話のウマが合う。
森田彦一――田場夫妻とねりま文化の会を牽引する人。
図師三千男――CM業界での同僚。演劇に精通したインテリ(!)。
山本邦彦――映画出身のテレビの演出家。10ch土曜ワイド劇場のシリーズの中で、かずかずヒット作を連発中。ジェントルマンである。
鈴木としお――浅草生まれの作家。浅草をテーマにした著作は多い。ダンディ。
鶴巻亨・谷口広寿――書籍編集者。現在小生がお世話になっているジェントルな方々。
立原摂子――ピアニストで作曲家。スレンダーな容姿に秘めたパッションから、〔和と洋〕が巧みにブレンドされたテイストがかもされて――チャーミング。
喜原弥穂子――プロデューサー。沖縄えらぶ島生まれ。パワフルな素敵なレディ。
伊井一郎――芸能史家・作家。たとえば「女剣一代」は浅草の女剣劇・中野弘子をテーマにした手重りのする著書は、彼の根強い情熱の一つの証し。
(以下、次号につづきます)
とにかく大勢の友人・知人、そして先輩方が、エコー劇場に来て下さった。(以下、順不同・敬称略でご紹介したい)
戸舘正憲&石井小夜子――平和と人権問題・青少年問題と取り組む真摯でまじめ(!)な弁護士さん。こういう弁護士さんは大好き。
渡辺洋・小百合ご夫妻――ご主人はホホバオイルの化粧品を扱う立志伝的ファイター。奥さまはとびきり若くて美人の良きパートナー。
島野功緒・奥さま――ご主人は芸能史家・評論家&新聞コラムニスト。その舌鋒鋭く、論旨明解。奥さまはこれまた(!)美人。
ふじやま竜――「大都映画撮影所物語」公演に先だって、時代物演技の所作などをコーチして下さったベテラン俳優。一色涼太・山口隆――個性派舞台人。
岡田一利――マスコミ業界の先輩だが、彼の父上は、日本映画界の名バイプレーヤー・瀬川路三郎。現在の岡田一利もいい顔をしている。
大山勝美――テレビドラマの名作「岸辺のアルバム」「ふぞろいのリンゴたち」などの実力派ディレクター。小生のアコガレのお方。
伊藤アキラ――CM業界の雄。(優!)とくに曲の付くコトバをせっせと書く。たとえば「はたらくクルマ」なども子どもたちに愛された。
鈴木武男――コマーシャル・フォトグラファー。着実にいい仕事を重ねる小生の大事な友人。
岐部たかし――画家。女性のファンが多い、ビューティフルでソフトな画風で売れっ子。
舩水京子――琵琶奏者として、またさまざまな表現手段を駆使するスーパー・ウーマン。
坂井てい――ベテラン校正者。心こまやかでチャーミングなお方。
松田満恵――同じくベテラン校正者。ワイフを通じてのおつきあい。
田場洋和・祥子ご夫妻――平和のために活動する健やかなご夫妻。
森川澄子――チャーミングなキャリア・ガールのOB(?)。この方とは話のウマが合う。
森田彦一――田場夫妻とねりま文化の会を牽引する人。
図師三千男――CM業界での同僚。演劇に精通したインテリ(!)。
山本邦彦――映画出身のテレビの演出家。10ch土曜ワイド劇場のシリーズの中で、かずかずヒット作を連発中。ジェントルマンである。
鈴木としお――浅草生まれの作家。浅草をテーマにした著作は多い。ダンディ。
鶴巻亨・谷口広寿――書籍編集者。現在小生がお世話になっているジェントルな方々。
立原摂子――ピアニストで作曲家。スレンダーな容姿に秘めたパッションから、〔和と洋〕が巧みにブレンドされたテイストがかもされて――チャーミング。
喜原弥穂子――プロデューサー。沖縄えらぶ島生まれ。パワフルな素敵なレディ。
伊井一郎――芸能史家・作家。たとえば「女剣一代」は浅草の女剣劇・中野弘子をテーマにした手重りのする著書は、彼の根強い情熱の一つの証し。
(以下、次号につづきます)
— posted by 本庄慧一郎 at 04:44 pm
「ニッポンの芸能人」シリーズ85
2006/12/8
テアトル・エコー「大都映画撮影所物語」公演打ち上げ
ぼくの〔もう一つの道標〕はエキサイティングでした。
熊倉一雄さんのキューで具体化した今回の舞台はとても楽しい仕上がりで、桂小金治さんご夫妻、小沢昭一さん、永六輔さんをはじめ、矢野誠一さん、粕谷一希さん、小田嶋雄志さん、大笹吉雄さん、塚田圭一さん、高瀬精一郎さん、松波喬介さんなどの評論家や演出家の皆さん。林与一さん、水沢有美さん、花柳幻舟さん、白石奈緒美さん、佐藤B作・あめくみちこさんご夫妻。羽佐間道夫さん、矢島正明さん、谷道夫さん(デューク・エイセス)、西脇久夫さん(ボニー・ジャックス)などの俳優・タレント・歌手の方々。また日本映画の最近の大ヒット作「ALWAYS 三丁目の夕日」のプロデューサー阿部秀司さん、テレビと映画の「鬼平犯科帳」の能村庸一さん……(全部の方々のお名前を記せなくてスミマセン――次回に続きます)と文字どおり多士済々のお客様で連日満席の15日間でした。
もうひとつ特筆すべきは、大都映画社長河合徳三郎氏のご親族・ご親戚の方々、とりわけ河合徳三郎氏のお嬢さんで大都のスターだった三城輝子さんのお嬢さん高橋理恵さんも女優だったお方。そのお嬢さんもまた女優で河合亞美さん。十数人の皆さんがご来場になり、大感激してくれました。
皆さん心からの拍手をしてくれました。
そのほか沢山の好意的なアンケートを頂きましたが、前回の上野三蔵さんの劇評に続いて今回は演劇評論家菅井幸雄さんの「劇評」(しんぶん赤旗)を転載させて頂きます。
娯楽性と風刺、鮮やか
このドラマは、映画人がかつて「活動屋」と呼ばれていた戦前の1930年代、無声映画がトーキーに移行していこうとしていた時代を、題材としている。作者の本庄慧一郎は、実際にあった大都映画撮影所を舞台として、そこに働く人びとの日常生活と、「活動屋」としての生きざまを交錯させながら、ドラマを展開する。しかも毎回の場面転換に、サイレント映画の1シーンを常に挿入する永井寛孝の演出によって、現実感が際立ったくる。
うだつのあがらない大部屋の男優は喧嘩(けんか)っ早いし、思うよう書けないシナリオライターは酔っぱらっている。そこに、女優目当ての警察官が、見回りといって訪ねてくるし、おかしな漫才師のコンビも飛びこんでくる。このような大部屋の俳優とドル箱スター、幹部女優の扱いは、まったく対照的である。社長(熊倉一雄)と社長に追従する専務(沖恂一郎)は、俳優陣の対立した状況をすべて受け入れつつ、娯楽映画をつくりつづけていく。
ドラマは「人を殺すのも殺されるのもいやだ」という理由で、市川千代之介こと山田正作(古屋道秋)が軍隊から脱走し、大部屋にかくまわれた場面から、急転する。脱走兵を追ってくる憲兵(川本克彦)が、実は社長の妾(めかけ)腹の子であったという設定も、結末を無理なく説得させる工夫として、評価されてよい。テアトル・エコーは、演劇の娯楽性を常に重視し、その底に風刺をきかせる舞台をつくってきているが、その特徴が、この舞台にも、あざやかに反映されいる。
ぼくの〔もう一つの道標〕はエキサイティングでした。
熊倉一雄さんのキューで具体化した今回の舞台はとても楽しい仕上がりで、桂小金治さんご夫妻、小沢昭一さん、永六輔さんをはじめ、矢野誠一さん、粕谷一希さん、小田嶋雄志さん、大笹吉雄さん、塚田圭一さん、高瀬精一郎さん、松波喬介さんなどの評論家や演出家の皆さん。林与一さん、水沢有美さん、花柳幻舟さん、白石奈緒美さん、佐藤B作・あめくみちこさんご夫妻。羽佐間道夫さん、矢島正明さん、谷道夫さん(デューク・エイセス)、西脇久夫さん(ボニー・ジャックス)などの俳優・タレント・歌手の方々。また日本映画の最近の大ヒット作「ALWAYS 三丁目の夕日」のプロデューサー阿部秀司さん、テレビと映画の「鬼平犯科帳」の能村庸一さん……(全部の方々のお名前を記せなくてスミマセン――次回に続きます)と文字どおり多士済々のお客様で連日満席の15日間でした。
もうひとつ特筆すべきは、大都映画社長河合徳三郎氏のご親族・ご親戚の方々、とりわけ河合徳三郎氏のお嬢さんで大都のスターだった三城輝子さんのお嬢さん高橋理恵さんも女優だったお方。そのお嬢さんもまた女優で河合亞美さん。十数人の皆さんがご来場になり、大感激してくれました。
皆さん心からの拍手をしてくれました。
そのほか沢山の好意的なアンケートを頂きましたが、前回の上野三蔵さんの劇評に続いて今回は演劇評論家菅井幸雄さんの「劇評」(しんぶん赤旗)を転載させて頂きます。
(お名前は順不同です)
娯楽性と風刺、鮮やか
このドラマは、映画人がかつて「活動屋」と呼ばれていた戦前の1930年代、無声映画がトーキーに移行していこうとしていた時代を、題材としている。作者の本庄慧一郎は、実際にあった大都映画撮影所を舞台として、そこに働く人びとの日常生活と、「活動屋」としての生きざまを交錯させながら、ドラマを展開する。しかも毎回の場面転換に、サイレント映画の1シーンを常に挿入する永井寛孝の演出によって、現実感が際立ったくる。
うだつのあがらない大部屋の男優は喧嘩(けんか)っ早いし、思うよう書けないシナリオライターは酔っぱらっている。そこに、女優目当ての警察官が、見回りといって訪ねてくるし、おかしな漫才師のコンビも飛びこんでくる。このような大部屋の俳優とドル箱スター、幹部女優の扱いは、まったく対照的である。社長(熊倉一雄)と社長に追従する専務(沖恂一郎)は、俳優陣の対立した状況をすべて受け入れつつ、娯楽映画をつくりつづけていく。
ドラマは「人を殺すのも殺されるのもいやだ」という理由で、市川千代之介こと山田正作(古屋道秋)が軍隊から脱走し、大部屋にかくまわれた場面から、急転する。脱走兵を追ってくる憲兵(川本克彦)が、実は社長の妾(めかけ)腹の子であったという設定も、結末を無理なく説得させる工夫として、評価されてよい。テアトル・エコーは、演劇の娯楽性を常に重視し、その底に風刺をきかせる舞台をつくってきているが、その特徴が、この舞台にも、あざやかに反映されいる。
(菅井幸雄・演劇評論家)
— posted by 本庄慧一郎 at 04:35 pm
「ニッポンの芸能人」シリーズ84
2006/12/1
今回は、演劇評論家上野三蔵(うえのみつぞう)氏のホームページ〔http://sibaiwatanosii.web.infoseek.co.jp/
〕からの転載です。
大都映画撮影所物語
映画の撮影所と聞けば、古くは蒲田、大船、太秦の地名がすぐ浮かぶが、戦前巣鴨に撮影所があったのです。これほんと。
いまでは地元の人も殆ど知らないが、土木・建築業界の実力者河合徳三郎が昭和2年に河合映画を創設、規模を広げ昭和8年に「大都映画」を創立、撮影所はいまの西巣鴨交差点近くの白山通り沿いにあった。
当時の一流映画会社の日活や松竹と違い、時代劇、喜劇、アクションものなどの徹底した娯楽作品を低予算で、一週間に3本を製作、他の映画会社の入場料よりはるかに安く提供、全国のファンにたいへん喜ばれたそうだ。
昭和17年に戦時統合されるまで1,325本を製作、殆どが無声映画だったことが大都映画の特長だ。ここで育ち有名になったのが松方弘樹、目黒祐樹の父親・近衛十四郎、藤田まことの父・藤間林太郎らも輩出した。
前置きが長くなったのでそれでは昭和11年、冬、巣鴨の「大都映画撮影所」へ飛び込んでみよう。
B級撮影所で活躍するのはなんといっても大部屋の俳優たちだ。その控え室には頭から包帯を巻き、松葉杖をついた大木金峰(沢りつお)が大声で若い者たちに意見をしている。なんでこんな姿かというと撮影中に飛び込め!と監督にいわれクッションを置いていないのに飛び降りた無鉄砲な古参の大部屋俳優を筆頭に……。
セリフ覚えが悪く新派を追い出された花柳寿之輔(林一夫)〈この撮影所は無声映画一本やりだからセリフがしゃべれなくてもかまわない〉。
年増で面倒みがいい大部屋女優・原田節子(丸山裕子)〈あの大女優原節子ではない、念のため〉。照明係が本職なのに手が足らないのでいつの間にか俳優をやっている友田雄二(藤原堅一)。
なにせここの撮影所は一週間で二本も三本もクランクアップさせるから俳優たちは、自分が次はどんな役に出るのかさっぱり分からない。大部屋女優の新人は振袖姿からあっという間に顔を塗りたくった土人の女に変身。親が見たらビックリするだろう。
変わったところでは漫才師の荻窪オット(川田栄)。西荻ドッコイ(石本竜介)。二人合わせてオットドッコイが俳優になりたくて撮影所に入りびたる。
戦場みたいな控え室で大部屋俳優が立ち騒ぐなか文句をブツブツ言っているのがシナリオライターの島津英介(入江崇史)で、彼は「作品にきちんとした中身が入っていなければだめだ」。「俺だったらいま撮っているような作品は作らない」と部屋にやってきたここの専務・社長の側近・松井孫兵衛(沖恂一郎)にくってかかるが、もちろん、却下される。
外部の人間でお馴染みなのは、巣鴨署の冴えない巡査で、好きな幹部女優・香川糸子(村中実枝)にのほせあがっているが、検閲でいちゃもんをつける岩原源三(山下啓介)がしょちゅう見回りにくる。
悪い事に召集されていた大都映画のトップスターだった市川千代之介こと山田正作(古屋道秋)が軍隊を脱走。社長で、妾が何人もいる艶福家の河合徳十郎(熊倉一雄)が、彼をかくまっていたからそれでなくてもスピード撮影でてんやわんやの所内は、またややこしくなった。
山田を追いかけているのが憲兵の立花広光(川本克彦)で、立花「山田を引き渡せ」河合「いや山田なんか知らない」。と踏ん張る。後でこの憲兵さんと社長のことが……。
脱走の理由は「人を殺したくないし、殺されたくもない」というものだった。社長の河合が社長室でつぶやく。「いやな臭いがしてきた」。そう、日本は刻々軍靴の音が響く時代へ突入していった。
また、現場に戻りここのドル箱スター花野京四郎(松澤太陽)が紫頭巾に扮しバッタバッタと悪人をなで切りにしている最中に“召集令状”が届けられた。
撮影はオジャン。控え室は「花野京四郎君、出征壮行会」に早変わりした。ブツブツ言っていたシナリオライターの島津英介は映画のネタに困っていた会社に、“宗旨”を変えたのか、正義の味方“鉄仮面”が活躍する作品を考え実行に移そうとしていた矢先、壮行会の席に目しか見えない仮面スタイルの鉄仮面が入ってきた。
なかなか面を脱がない鉄仮面はなんと脱走兵の山田正作だった。ラジオは2、26事件の反乱軍兵士に「いまからでも遅くはない、現隊に戻れ!」を放送していた……。
喜劇をやらせたら抜群の実力を発揮する劇団だが、B級とも三流とも世間で言われながら大衆娯楽映画作りに徹した「大都映画撮影所」の大部屋俳優を全員が生き生きと活躍して「かつてそんな撮影所があったのか……」と笑いと楽しさがいっぱいの作品で、劇中当時撮影された無声映画が放映されるのもおもしろい試みだ。
だが、この作品の裏で表面には出ないが、召集令状や軍隊からの脱走と“反戦”も織りこまれ、喜劇だけではない大事な面も演じられている。フィーナーレで客の手拍子と楽しそうな笑い声が印象的だった。また時期をみて再演をしてほしい作品だ。
ひとこと
私が観た日に作者の本庄慧一郎さんに会ったので、作者の意図をきいたら「私の叔父が当時の大都撮影所で監督をしていたので巣鴨の撮影所は良く知っています」。
「古くから劇団の熊倉さんとは親交があって劇団用に原稿を頼まれたので、撮影所の大部屋俳優の泣き笑いを書いてみました。お客さんに評判がとてもいいので安心しました」と語ってくれた。

大都映画撮影所物語
映画の撮影所と聞けば、古くは蒲田、大船、太秦の地名がすぐ浮かぶが、戦前巣鴨に撮影所があったのです。これほんと。
いまでは地元の人も殆ど知らないが、土木・建築業界の実力者河合徳三郎が昭和2年に河合映画を創設、規模を広げ昭和8年に「大都映画」を創立、撮影所はいまの西巣鴨交差点近くの白山通り沿いにあった。
当時の一流映画会社の日活や松竹と違い、時代劇、喜劇、アクションものなどの徹底した娯楽作品を低予算で、一週間に3本を製作、他の映画会社の入場料よりはるかに安く提供、全国のファンにたいへん喜ばれたそうだ。
昭和17年に戦時統合されるまで1,325本を製作、殆どが無声映画だったことが大都映画の特長だ。ここで育ち有名になったのが松方弘樹、目黒祐樹の父親・近衛十四郎、藤田まことの父・藤間林太郎らも輩出した。
前置きが長くなったのでそれでは昭和11年、冬、巣鴨の「大都映画撮影所」へ飛び込んでみよう。
B級撮影所で活躍するのはなんといっても大部屋の俳優たちだ。その控え室には頭から包帯を巻き、松葉杖をついた大木金峰(沢りつお)が大声で若い者たちに意見をしている。なんでこんな姿かというと撮影中に飛び込め!と監督にいわれクッションを置いていないのに飛び降りた無鉄砲な古参の大部屋俳優を筆頭に……。
セリフ覚えが悪く新派を追い出された花柳寿之輔(林一夫)〈この撮影所は無声映画一本やりだからセリフがしゃべれなくてもかまわない〉。
年増で面倒みがいい大部屋女優・原田節子(丸山裕子)〈あの大女優原節子ではない、念のため〉。照明係が本職なのに手が足らないのでいつの間にか俳優をやっている友田雄二(藤原堅一)。
なにせここの撮影所は一週間で二本も三本もクランクアップさせるから俳優たちは、自分が次はどんな役に出るのかさっぱり分からない。大部屋女優の新人は振袖姿からあっという間に顔を塗りたくった土人の女に変身。親が見たらビックリするだろう。
変わったところでは漫才師の荻窪オット(川田栄)。西荻ドッコイ(石本竜介)。二人合わせてオットドッコイが俳優になりたくて撮影所に入りびたる。
戦場みたいな控え室で大部屋俳優が立ち騒ぐなか文句をブツブツ言っているのがシナリオライターの島津英介(入江崇史)で、彼は「作品にきちんとした中身が入っていなければだめだ」。「俺だったらいま撮っているような作品は作らない」と部屋にやってきたここの専務・社長の側近・松井孫兵衛(沖恂一郎)にくってかかるが、もちろん、却下される。
外部の人間でお馴染みなのは、巣鴨署の冴えない巡査で、好きな幹部女優・香川糸子(村中実枝)にのほせあがっているが、検閲でいちゃもんをつける岩原源三(山下啓介)がしょちゅう見回りにくる。
悪い事に召集されていた大都映画のトップスターだった市川千代之介こと山田正作(古屋道秋)が軍隊を脱走。社長で、妾が何人もいる艶福家の河合徳十郎(熊倉一雄)が、彼をかくまっていたからそれでなくてもスピード撮影でてんやわんやの所内は、またややこしくなった。
山田を追いかけているのが憲兵の立花広光(川本克彦)で、立花「山田を引き渡せ」河合「いや山田なんか知らない」。と踏ん張る。後でこの憲兵さんと社長のことが……。
脱走の理由は「人を殺したくないし、殺されたくもない」というものだった。社長の河合が社長室でつぶやく。「いやな臭いがしてきた」。そう、日本は刻々軍靴の音が響く時代へ突入していった。
また、現場に戻りここのドル箱スター花野京四郎(松澤太陽)が紫頭巾に扮しバッタバッタと悪人をなで切りにしている最中に“召集令状”が届けられた。
撮影はオジャン。控え室は「花野京四郎君、出征壮行会」に早変わりした。ブツブツ言っていたシナリオライターの島津英介は映画のネタに困っていた会社に、“宗旨”を変えたのか、正義の味方“鉄仮面”が活躍する作品を考え実行に移そうとしていた矢先、壮行会の席に目しか見えない仮面スタイルの鉄仮面が入ってきた。
なかなか面を脱がない鉄仮面はなんと脱走兵の山田正作だった。ラジオは2、26事件の反乱軍兵士に「いまからでも遅くはない、現隊に戻れ!」を放送していた……。
喜劇をやらせたら抜群の実力を発揮する劇団だが、B級とも三流とも世間で言われながら大衆娯楽映画作りに徹した「大都映画撮影所」の大部屋俳優を全員が生き生きと活躍して「かつてそんな撮影所があったのか……」と笑いと楽しさがいっぱいの作品で、劇中当時撮影された無声映画が放映されるのもおもしろい試みだ。
だが、この作品の裏で表面には出ないが、召集令状や軍隊からの脱走と“反戦”も織りこまれ、喜劇だけではない大事な面も演じられている。フィーナーレで客の手拍子と楽しそうな笑い声が印象的だった。また時期をみて再演をしてほしい作品だ。
ひとこと
私が観た日に作者の本庄慧一郎さんに会ったので、作者の意図をきいたら「私の叔父が当時の大都撮影所で監督をしていたので巣鴨の撮影所は良く知っています」。
「古くから劇団の熊倉さんとは親交があって劇団用に原稿を頼まれたので、撮影所の大部屋俳優の泣き笑いを書いてみました。お客さんに評判がとてもいいので安心しました」と語ってくれた。
— posted by 本庄慧一郎 at 06:29 pm
「ニッポンの芸能人」シリーズ83
2006/11/24
「大都映画撮影所物語」公演2日目のこと
とにかく、政治も社会もひたすら不快そのもの。
というわけでもう一つ、(とにかく)、せめて個人レベルでは「不快なヤカラ、無礼なヤツとは絶対接触しない」。そして「快いエピソードを共有できる人とのみとご一緒する」という方針をテッテイする。
「大都映画撮影所物語」テアトル・エコー公演、昨日11月22日初日、そして昨日23日が2日目。
もう両手で数えきれないほどの「快いエピソード」が生まれている。
さて今回は「チャンバリストクラブ通信」(平成4年4月発行)からの再録です。
カビ臭い押し入れの暗闇と、いつ燃え出すかわからない危険(スリル)と、そして、あの映画館の大スクリーン(!?)に映し出される映画スター(いま思えば、近衛十四郎、大乗寺八郎、阿部九州男、杉山昌三九、松山宗三郎、水島道太郎、ハヤブサ・ヒデト――それに大岡怪童、山吹徳二郎、大山デブ子などなど)が、とにかく自分しかいない密室でせっせと動いて見せてくれるというコーフンはかなりのものだった。いや、そのままからだが爆発してしまうのではないかと思えるほどのエキセントリックな刺激だった。
とはいうものの、もちろん音声なし。その彼らの動きとて、ハンドルの回転のムラムラがそのままイコールするわけだから、時にはやたら落ち着きがなく、また時にはノタリノタリとだらしがない。おまけに物語の展開などに一切関係のないコマ切れシーンばかり――。
それでも飽くことなく、押し入れにこもって、カラカラと映写機を回していた。
ある夏のさなか、ついに“押し入れ劇場”の熱気にあてられて、失神もした。
でも、しつこいことに、その35ミリのフィルムを一駒ずつハサミで切って、日光写真にして印画したりもし、悪道達に分けてやって得意になったりもしたものだ。
大伴竜三という監督がいた。母の妹の旦那だったが、三十代後半で急逝する。
戦時企業統合で、日活、新興キネマ、大都映画が合併する(昭和17年)ことになり、新会社は「大映」になるのである。
叔父大伴竜三はその新会社がスタートした時点で逝ったのだ。
この大伴の他に、カメラマン、シナリオライターで映画づくりに携わる叔父たちがいたのだ。
正月など、大伴の家へ遊びにゆくと、石山稔監督などが来ていて、「おい坊主、子役として映画に出ないか」と再三声をかけてくれたらしい。(それは愛らしい坊ちゃんだった?)が、「映画は観るのはいいけど、出るのはイヤだ」とうそぶき、それでも過分のお年玉をせしめたと、後年になって小生の親父がいっていた。
でも、撮影所に行くのは好きだった。たびたび親父をけしかけ(小生の親父もゲーノーが好きで、若いときには女形(おやま)を志し、新派の大部屋にもぐりこんだり、のちには歌舞伎の声色などで素人はだしの芸を披露していた)巣鴨の撮影所に連れていったもらった。
ちょんまげの武士がタバコを喫っていたり、腰元のおねえさんがネーブルをかじっていたり、うさん臭いようなかご担ぎが真面目くさって社会談義をしているような風景がとりわけ面白く、興味津々で彼らにまつわりついて、シッ!シッ!と追い払われたものだ。
四年前、新宿ムーランルージュのことをイメージのベースにして「赤い風車劇場の人々」という長編小説を書きまとめた。平成6年になって舞台化したいという申し入れを受けた。山本安英さんの“ぶどうの会”にいた森井睦氏(劇団ピープルシアター代表)が本を読んで気に入ってくれて……来年は「敗戦五十年目」ということで十月の上演をめざすとか。もう、脚本第一稿が出来た。いい舞台にしたい、と思う。
新宿ムーランルージュにも叔父(母の弟)で劇作家の小沢不二夫がいた。もちろん大都の叔父大伴竜三とは義理の兄弟であり、他の叔父たち二人とはほんとうの兄弟になる。
学齢にも達していなかったが、小生としてはあの戦前のムーランの舞台を一、二度観ている。そして、楽屋の空気にも触れている。
大都映画のスタジオの空気を吸い、新宿ムーランルージュの楽屋の空気を知ってしまった子供は、当然のようにマセガキになり、長じてはまともな職業(?)をなんとなく忌避するようになった――。
と同時に、小説「赤い風車劇場の人々」の舞台化をきっかけに、来年はなんとか戯曲にも挑戦(回帰)したいと考えている。
あの押し入れの中の手回し35ミリのスクリーンからはじまった映画への好奇心は、その後“表現するという仕事”に関わることにつながっていった。
あの押し入れのスクリーンの興奮はいまだに持続しているのだ。
それにしても人間、妙なものと延々とつきあうものだ、とつくづく思う。
ところで、いまなんとか大都映画をイメージのベースに小説を書きたいと思っている。その資料の一部である東京新聞(昭和18年6月3日)の「芸能案内欄」をコピーして「チャンバリストクラブ」の皆さんにプレゼントしたい。当時の映画館や映画の題名を眺めるだけでもユニークなタイムスリップがたのしめますよ。
とにかく、政治も社会もひたすら不快そのもの。
というわけでもう一つ、(とにかく)、せめて個人レベルでは「不快なヤカラ、無礼なヤツとは絶対接触しない」。そして「快いエピソードを共有できる人とのみとご一緒する」という方針をテッテイする。
「大都映画撮影所物語」テアトル・エコー公演、昨日11月22日初日、そして昨日23日が2日目。
もう両手で数えきれないほどの「快いエピソード」が生まれている。
さて今回は「チャンバリストクラブ通信」(平成4年4月発行)からの再録です。
押し入れの中のスクリーン
本庄慧一郎
小学校1、2年生の頃(昭和10年代なかば)、手回しの35ミリ映写機を持っていた。押し入れの下段にそれを持ち込む。裸電球を光源とし、カラカラとハンドルを回す。当時すでに、マンガなどの子供向けフィルムが市販されていたが、とうてい買ってもらえない。(なのになぜ映写機だけがあったのだろう?)やむなく、叔父たちが働いていた巣鴨の大都撮影所へ出かけていって、残ラッシュフィルムをもらってくる。それを装?して、手早くハンドルを回す。押し入れの中の赤茶けた壁に、ほんのつかの間、B6版のノートを横にしたほどのスペースにチラチラと映像らしきものが映し出される。でもうっかりハンドルの回転を止めると、たちまち電球の集中熱で、ボッ!とフィルムが燃えあがるのだ。カビ臭い押し入れの暗闇と、いつ燃え出すかわからない危険(スリル)と、そして、あの映画館の大スクリーン(!?)に映し出される映画スター(いま思えば、近衛十四郎、大乗寺八郎、阿部九州男、杉山昌三九、松山宗三郎、水島道太郎、ハヤブサ・ヒデト――それに大岡怪童、山吹徳二郎、大山デブ子などなど)が、とにかく自分しかいない密室でせっせと動いて見せてくれるというコーフンはかなりのものだった。いや、そのままからだが爆発してしまうのではないかと思えるほどのエキセントリックな刺激だった。
とはいうものの、もちろん音声なし。その彼らの動きとて、ハンドルの回転のムラムラがそのままイコールするわけだから、時にはやたら落ち着きがなく、また時にはノタリノタリとだらしがない。おまけに物語の展開などに一切関係のないコマ切れシーンばかり――。
それでも飽くことなく、押し入れにこもって、カラカラと映写機を回していた。
ある夏のさなか、ついに“押し入れ劇場”の熱気にあてられて、失神もした。
でも、しつこいことに、その35ミリのフィルムを一駒ずつハサミで切って、日光写真にして印画したりもし、悪道達に分けてやって得意になったりもしたものだ。
○
大都映画には、叔父たちが働いていた。大伴竜三という監督がいた。母の妹の旦那だったが、三十代後半で急逝する。
戦時企業統合で、日活、新興キネマ、大都映画が合併する(昭和17年)ことになり、新会社は「大映」になるのである。
叔父大伴竜三はその新会社がスタートした時点で逝ったのだ。
この大伴の他に、カメラマン、シナリオライターで映画づくりに携わる叔父たちがいたのだ。
正月など、大伴の家へ遊びにゆくと、石山稔監督などが来ていて、「おい坊主、子役として映画に出ないか」と再三声をかけてくれたらしい。(それは愛らしい坊ちゃんだった?)が、「映画は観るのはいいけど、出るのはイヤだ」とうそぶき、それでも過分のお年玉をせしめたと、後年になって小生の親父がいっていた。
でも、撮影所に行くのは好きだった。たびたび親父をけしかけ(小生の親父もゲーノーが好きで、若いときには女形(おやま)を志し、新派の大部屋にもぐりこんだり、のちには歌舞伎の声色などで素人はだしの芸を披露していた)巣鴨の撮影所に連れていったもらった。
ちょんまげの武士がタバコを喫っていたり、腰元のおねえさんがネーブルをかじっていたり、うさん臭いようなかご担ぎが真面目くさって社会談義をしているような風景がとりわけ面白く、興味津々で彼らにまつわりついて、シッ!シッ!と追い払われたものだ。
四年前、新宿ムーランルージュのことをイメージのベースにして「赤い風車劇場の人々」という長編小説を書きまとめた。平成6年になって舞台化したいという申し入れを受けた。山本安英さんの“ぶどうの会”にいた森井睦氏(劇団ピープルシアター代表)が本を読んで気に入ってくれて……来年は「敗戦五十年目」ということで十月の上演をめざすとか。もう、脚本第一稿が出来た。いい舞台にしたい、と思う。
新宿ムーランルージュにも叔父(母の弟)で劇作家の小沢不二夫がいた。もちろん大都の叔父大伴竜三とは義理の兄弟であり、他の叔父たち二人とはほんとうの兄弟になる。
学齢にも達していなかったが、小生としてはあの戦前のムーランの舞台を一、二度観ている。そして、楽屋の空気にも触れている。
大都映画のスタジオの空気を吸い、新宿ムーランルージュの楽屋の空気を知ってしまった子供は、当然のようにマセガキになり、長じてはまともな職業(?)をなんとなく忌避するようになった――。
○
放送ライターと広告のコピーライター(TVコマーシャル企画制作)の仕事が永かった。が、近頃、時代小説を書きはじめ、周回遅れのランナーとして頑張っている。と同時に、小説「赤い風車劇場の人々」の舞台化をきっかけに、来年はなんとか戯曲にも挑戦(回帰)したいと考えている。
あの押し入れの中の手回し35ミリのスクリーンからはじまった映画への好奇心は、その後“表現するという仕事”に関わることにつながっていった。
あの押し入れのスクリーンの興奮はいまだに持続しているのだ。
それにしても人間、妙なものと延々とつきあうものだ、とつくづく思う。
ところで、いまなんとか大都映画をイメージのベースに小説を書きたいと思っている。その資料の一部である東京新聞(昭和18年6月3日)の「芸能案内欄」をコピーして「チャンバリストクラブ」の皆さんにプレゼントしたい。当時の映画館や映画の題名を眺めるだけでもユニークなタイムスリップがたのしめますよ。
— posted by 本庄慧一郎 at 04:38 pm