「ニッポンの芸能人」シリーズ82

べろべろ、ぐしゃぐしゃ泣く男たち
 新聞のゲーノー欄に「号泣する男たち」という記事があった。
 つまり、映画やテレビドラマで、いわゆる〔イケメン男優〕たちがだらしなく「鼻水をすすり、鼻水の流れるままに、やたら泣いている」というのだ。
 いわく「公開中の映画だけでも、〔ただ、君を愛している〕の玉木宏と〔虹の女神〕の市原隼人が、失った女神を思って泣き、〔手紙〕では玉山鉄二が弟との再会に号泣している。弟役の山田孝之も〔世界の中心で愛を叫ぶ〕で泣き、映画「電車男」では、秋葉原の中心で愛を叫んで泣いていた」とある。
 いや、べろべろ泣くのは、男の主人公ばかりではない。若きヒロインもこれまたカンタン に泣いているねぇ。
 映画「網走番外地」などの映画音楽をワンサと作曲していた(魅力的な)ジャズピアニストでもあった故八木正生は、「近頃の映画シナリオの音楽のト書きには、お涙シーンの前にはたいてい〔音楽・切なく胸迫る心情〕なんて書いてある。そんなことは役者がやれっていうの!」とよく言っていた。
 八木正生のダイナミックでパワフルなクリエィティブ・ワールドが大好きで、高倉健のアサヒビールのテーマソング(コーラス・デュークエイセス)などあれこれ作詞をし、作曲してもらったが、彼は「泣き虫ミュージック」は大嫌いだった。

耐えて我慢してそれでカッコよかった男たち
 黒沢明作品の三船敏郎も、「座頭市」の勝新太郎も、日活アクションの石原裕次郎も、そして東映アクションの高倉健も、べろべろ泣くことはなかった。
 ひと昔前、映画全盛の頃「お涙頂戴映画」というカテゴリーがあった。
 「母もの」というドロドロの物語だが、息子が実の母を殺す、また生みの母が実子を手にかけるという時代では、「母もの」などは通用しないのだろうね。
 いま、いじめと小学生・中学生などの自殺、かと思えば教師や校長先生の自殺が相次いでいる。
 それぞれの事情にはいくつもの交錯した原因があるのだろうが、それにしても皆さん、死を急ぎ過ぎる。
 この忌むべき現象と「やたら男がべろべろ泣く」という現象と大いに関係があるのではないのかね。
 いつの時代のどんな人生にも、我慢や忍耐や辛抱や自制は絶対条件だろうが。

欲呆け犯罪者たちもまた卑劣卑怯な弱虫だ
 欲呆け金呆けにまつわる犯罪もうんざりするほど続発している。
 県知事たちの談合・ワイロまみれの事件をはじめとする欲呆け金呆け人種の異常増殖! 彼らもまた「泣き虫・甘ったれ人種」の変種だと思っている。
 そこには、人間としての、あるいは男らしい我慢も忍耐も辛抱も自制もないのだから。そんな彼らも犯罪者として刑務所に追いやられた時に、やっぱりイージーにべろべろ泣くだろうね。
 公金横領も、汚職も、いじめも、痴漢も、さまざまな浅はかな犯罪も、それもこれもが裏を返せばまぎれもなく「卑怯卑劣な甘ったれ弱虫人種」である。

— posted by 本庄慧一郎 at 04:21 pm  

「ニッポンの芸能人」シリーズ81

やっぱりドキドキ・ワクワクを創りたい
 10月の初旬、テアトル・エコーで、「大都映画撮影所物語」について演出の永井寛孝さんと共にY新聞の演劇担当T記者さんのインタビューを受けた。
 そのT記者さんには、8年半ほど前(98年3月)に、荒川区の区報「ほっとたうん」でインタビューを受けていた。
 その記事の中で、ぼくは「コミュニケーションのスーパーマーケット」と自称している。T記者さんはそのことを憶えていて下さった。
 念願の舞台のホンを具体化できての取材での〔再会〕は文句なしに嬉しかった。(記事は10月23日付のY新聞に写真入りで大きく掲載された)
 この記事に先行してT新聞の社会部記者さんK氏が、「徹底した庶民主義・大都映画舞台で復刻」と社会面6段のトップで紹介して下さった。
 いずれの記事も「大都」へのぼくの思いをそっくり紹介してくれていて、大勢の友人知人からうれしい反響があった。ぼくはこのドキドキ・ワクワクはぜったい忘れないだろう。

「もうひとつの出発」としての舞台公演
 現在、さいわいなことに、文庫書き下ろし時代小説の仕事は、「最低1日15枚」というノルマを自分に課して執筆している。(この11月も、学研M文庫と廣済堂出版時代物文庫と2冊出る)
 でも、今回のエコー公演の観客動員にはめいっぱい努めたいと、友人知人そして先輩の皆さんにせっせとお知らせの手紙を書いた。
 この原稿を書いている11月10日(金)現在、すでに100名という大台を大きく越える方々が観に来て下さることになっている。皆さんお忙しい方ばかりなので、公演近くなると、また事務所の電話とFAXがフル稼働するだろう。
 演劇評論家・芸能史家・文芸評論家。映画監督・脚本家・テレビ・ディレクター・演劇・映画プロデューサー。俳優・タレント。そして社会評論家・ジャーナリスト……と、現在マスコミ界第一線で活躍している方々……。
 加えて、ぼくが好意をもっている親しい友人知人の皆さんにご案内を差しあげた。
 近頃しきりに思うのは「快いエピソードを共有できる人とのていねいなおつきあい」だが、その思いはちゃんと具体化されている。

貴重な縁(えにし)のふしぎな蘇生
 ずっと以前、「真野響子のカティサーク」のCFの企画・制作をやった時、グラフィックを担当したT氏とも永いおつきあいだ。
 彼はクリエイティブ・プロダクションのオーナーだが、大の映画好きで、私財を投じて短篇映画「アイロン」を制作。その作品が過日、カンヌ映画祭ヤング批評家大賞を獲得した。
 その祝賀パーティの席で、かつてぼくが広告を志してコピーライターとして勤めたDK広告代理店のOBお二人と嬉しい再会をした。
 話はちょっと戻るが、ぼくは昨年の夏、とんでもない大病をして2ヶ月の入院とリハビリ生活をしたが、直後、自主リハビリとして「小説版大都映画」400枚に挑戦した。
 エコーの舞台脚本とは異なり、昭和11年から16年(1936年〜1941年)にわたる短篇連作形式で未発表のこの作品の書籍化、テレビ・映像化などを推進している。
 そんなことから、最近の日本映画「ALWAYS 三丁目の夕日」と時代物「花よりもなほ」に強い関心を持っていた。
 というわけで「ALWAYS 三丁目の夕日」の制作プロデューサーA氏にコンタクトをと希望していてコネもないのにプロポーズのレターをしたためた。
 もちろん「小説版大都映画」の企画をプレゼンしたいとうことで。
 ところが、10月26日付朝日新聞の日曜版にそのプロデューサーのA氏が紹介されていて、偶然にもそのA氏もかつてDK広告代理店に在籍したということを知った。
 さっそく、かの祝賀パーティで再会したお二人に訊くとA氏とはいまも親しいというお答え。
 ということで、ぼくもさっそくあらためてA氏に手紙を出し、電話をしてエコーの公演を観に来て下さることになった。
 さらに、昨年末に急逝された芸能プロデューサー麻生芳伸さんとの縁で親しくさせて頂いているA氏、K氏、S氏。もうおひと方、芸術品ともいうべき高級呉服を商っておられるN氏。おつきあいの日は浅いのだが、みんなジェントルで、とびっきり楽しい方ばかり。きっと新しいドキドキ・ワクワクが始まる予感が嬉しい。
 とりわけ、S氏のご実家はその昔なんと西巣鴨の大都撮影所の斜め前にあって……というエピソードが付いた。びっくりしたなあ、もう!
 こういったクリエイティブにかかわる進行形のはなしは、やはりドキドキ・ワクワクする。
 そのほかエコーの「大都映画撮影所物語」と関連して、現在いくつもの(!)快く楽しいことが同時進行している。
 この20日間ばかり、時代小説の執筆はだいぶ遅滞したが、なんとかピッチを上げてがんばるつもりだ。

新しい出会いのドキドキ・ワクワク
 現在、文庫書き下ろしでお世話になっている出版社及び編集者の皆さんにはただただ感謝しているが、つい最近、あるフリーの編集者Mさんのご紹介でD書房の第二編集局長Fさんと編集スタッフの方と親しくお話をする機会を得た。
「本庄さんはそのご病気できっぱりリセットなさったんじゃないですか」とFさんに言われた。
 しかも「こんなコトを書きたい」と提出した企画メモをその場で読んで下さって「是非!」というお答え。2作ばかりまとめてから、年末から初春にかけて取りかかるつもりだ。
 それと舞台のオリジナル脚本のNEXTを書きたいとギンギンである。
 あの大病から丸1年ちょっと。新しいドキドキ・ワクワクを与えて下さる皆さんに心から感謝!

— posted by 本庄慧一郎 at 02:47 pm  

「ニッポンの芸能人」シリーズ80

タイトルは「第2回日本三流映画祭」!
 06年11月2日(木)。京橋の近代美術館フィルムセンターにての開催。チャンバリストクラブ永田哲朗氏のリクエストで、日本映像学会映画文献資料研究会(代表日本大学教授田島良一氏)の協力を得てのユニークな催しである。
 昭和初期の日本映画発展期に、松竹・日活・帝キネなどのメジャー映画会社に伍してテッテイした娯楽映画作りに邁進した東活・全勝・極東、そして大都という「B級映画社」6作品の上映会だ。
 うち4作品は30分足らずのフィルム。あとの2作品が東活作品の67分と、大都の「岩見重太郎」の97分。
 なにしろ、トーキー作品はごく一部。ほとんどがサイレント作品。ということは、画面は映っているものの、声なし、音楽なしである。
 近代美術館のモダンなビルは美しく立派だし、ホールの作りもシートも申し分ないがスクリーンの映像は音声なしの古色蒼然(いわゆる雨が降っている状態)である。
 しかも、フィルムのコマ数の具合で、人物はチョコマカと動く。
 弁士も音楽なしのダンマリ映像(一部トーキー作品もあったが)を皆さんシーンとして、ただし、ジッと見ているのである。
 最近の映画館のスクリーンの音響の迫力はダイナミックで凄いが、こちらはただただ「シーン」なのだ。
 しかも、途中少しの休憩タイムはあったものの、午後1時から6時まで6作品を上映した。
 観客は総勢40〜50名ほどだったか。11月22日から12月6日までエコー劇場で「大都映画撮影所物語」を上演することにちなみ、目下、けい古中の主役の熊倉一雄さんをはじめ出演俳優諸君、それに演出家永井寛孝氏、制作白川浩司氏も参加した。
 今回の目玉はやはり大都の「岩見重太郎」。阿部九州男、東竜子、木下双葉といったスチール写真でおなじみの俳優たちが登場した。
 そのうちヒマを作って、サイレントの人物にせりふを書き、音楽や効果音をつけたい――などと思ったものだ。
 観客は当然のことながら高齢者が多いが「童心にかえって」、じっとスクリーンに見入るその熱心さはひたすら純粋で無垢……であった。

あけて11月3日は憲法記念日
 いまこの文章は翌日の11月3日の朝に書いている。
 世界に誇るべき日本の平和憲法が施行されて満60年。いま、改憲論(改悪論!)が姦しい。もちろん、良識ある者たちの反論も熱いが、なんとしても心ある者たちは結集して改悪を阻止すべきである。
 テッテイした大衆娯楽路線の大都映画が消滅したのは、日本国全体が戦時態勢に急傾斜したからである。
 現在、「独立系」でがんばる映画人たちの努力でやっと元気を取り戻しつつある日本映画も、ただ愚かしいカラ騒ぎで明け暮れる(便所の100ワット――ただ無駄に明るい!)現在のテレビなど、「時代が逆行」すれば、たちどころに潰されるだろう。
 映画や演劇、そしてテレビの番組などはいわば平和の産物――いってみればかつて炭坑で有毒ガス探知機の代用にされたカナリヤのようなものだ。
 権力者たちの強引で勝手な言論統制のホコ先が、遠からずぶっ潰しにやってくる――。
 大都映画の画面を見ていて、しきりにそんな「時代の危うさ」を考えていた。
 なにはともあれ、刻々と地滑り現象を起こしている時局に対応しなければならないテレビなどの連中が、図にのってアホ踊りをおどっているのには苛立を感じる。
 B級三流映画は、平和という時代の価値あるシンボルなのだよ、諸君!  

— posted by 本庄慧一郎 at 01:01 pm  

「ニッポンの芸能人」シリーズ79

大都映画には年間16本監督した猛者がいた
 朝日新聞06年10月7日の記事に「日本映画新人監督の波」があった。
 いわゆる松竹・東宝・東映といったメジャーの会社の不甲斐なさはともかく、新人といわれる人たちはインディーズ系で頑張っているようだ。
 このところ日本映画も元気を取り戻してきているというのだが。
 今回ぼくがテアトルエコー第131回公演の脚本の素材にした「大都映画」は、弁士つきの無声映画からトーキー映画へ移行する時代に、そのパワー(制作エネルギー)で、松竹や日活や帝キネ等のA級と称される映画会社を超えていた。
 たとえば最盛期の昭和12年の記録のベスト5では、石山稔監督16作品、ハヤフサヒデト16作品、吉村操16作品、白井戦太郎16作品、大伴竜三16作品、中島完三13作品……と目をむくような数字である。(ちなみに大伴竜三はぼくの叔父貴であった)
 ではこの昭和12年の人気俳優たちの出演本数はどうなっているか。
 トップ松山宗三郎(のちに監督もやったし、本名小崎政房として新宿ムーランルージュで脚本家として多くの佳作を書いた)は、なんと28作品に出演している。2位が大乗寺八郎の23作品。水島道太郎20作品。杉山昌三九17作品。藤間林太郎17作品。阿部九州男15作品。ハヤフサヒデト(監督もやりながら)12作品……エトセトラ。
 女優陣では、大河百々代20作品。三城輝子(河合徳三郎社長の令嬢で、男装の美剣士役が大当り! 大伴竜三監督作品が多い)が15作品。
 琴糸路13作品。久野あかね(松山宗三郎夫人)9作品……など。

年間制作本数にもビックリ!
 全国に直営館をもち映画配給会社としてスタートした河合映画は、昭和3年(1928)には年間72本制作している。(これもスゴイ!)
 昭和4年79本、昭和5年86本、昭和6年111本、昭和7年99本、昭和8年103本、昭和9年105本、昭和10年109本、昭和11年106本、昭和12年110本、昭和13年104本、昭和14年102本、昭和15年(戦時態勢深刻化する)91本、昭和16年(12月に第二次世界大戦勃発)39本。そして企業統合令で日活・新興との三社合併の昭和17年はたった4本。
 これらの数字からも映画や演劇などの「平和であってこその産業」というものの運命が如実に読み取れる。
 前出の記事の中に「06年9月〜12月の公開作品だけでも(新人作品は)20作品とある。
 しかも、現在の映画制作費という名の資金集めは至難の作業である。  その点大都映画の河合徳三郎社長は、ほとんどが自己資金でのマネージメント。利益もかなり上げていたようで、大都の主役スターたちはすでに一流スターとして君臨していた市川右太衛門や嵐寛寿郎たちに遜色のないギャラ(月給千円?)を取っていたとか。
 1週間に2作品を上げる――というペースはなんとしてもモーレツとしか言いようがない。
 若いとき大都で助監督をしていた叔父(のちにフジテレビのディレクターとして活躍していて現在も健在)の小沢效は、「現場の人間は安月給だったが、撮影所はイヤな時代とは別天地のパラダイスのように楽しかった」と証言している。(現在の釣三昧の大島からこのシバイを観に来てもらう予定だ)

 さて当時の「暗黒への時代への傾斜」のさなか、そんなユニークな大都映画撮影所のクレイジーともいうべきフンイキが、舞台に再現できるか――?
 新聞2紙(すでに東京新聞10月11日付と読売新聞10月23日付)に公演の紹介がのり、多くの人たちの問い合わせがある。
 やっと元気を取り戻してきつつある日本映画だが、時代がこれ以上キナ臭くなると、「平和産業としての映画」は、ヤバイですぞ。
 もっとも同記事には「若手の作品には社会性やメッセージ性が希薄」といわれ、さらに「単なる私小説や自分探しにとどまるか……」とダイナミズムが欠落しているとある。
 若いうちからチマチマと老成するなんてイヤだなあ。

— posted by 本庄慧一郎 at 08:31 am  

「ニッポンの芸能人」シリーズ78

大都映画はB級とか三流といわれて
 昭和16年(1941)12月8日、日本はアメリカに宣戦布告した。
 つまり、第二次世界大戦の勃発である。
 日本国が一丸となって戦時体制となって「暗黒への急坂」を転がり始めた翌17年に、企業統合令に従い大都映画は日活・新興との「大日本映画――大映」になる。というより、事実上、大都は消滅するのだ。
 大都映画は昭和3年(1928)に河合徳三郎率いる河合映画としてスタートして、5年後、大都映画になる。
 その当初から、社長河合徳三郎の映画製作理念は徹底していて、「安く・早く・楽しく」で、先行する松竹・日活・帝キネなどの競合社に挑戦していった。
 その製作本数は、5年後の昭和8年には年間100本。ちなみに同年の松竹蒲田58本、松竹下加茂34本。日活87本というデータがある。記録的な製作ペースだ。
 しかもそれから昭和14年までの7年間、年間100本以上というペースが持続する。
 戦況悪化してくる昭和15年は91本、そして昭和16年は39本に激減。
 さらに昭和17年の合併年は4本のみ。
 その間、松竹や日活の競合社は「大都はどうせB級三流」とひたすら蔑視してきた。
 が、映画ファンはその大都作品をこよなく愛した。
 入場料を他社が50銭のところ大都は30銭以下。あくまでも大衆を考えての河合徳三郎の経営理念は映画ファンの絶大な支持を得た。その勢いは業界を文字どおり席巻したのである。

藤田まことの父親と松方弘樹・目黒祐樹の父親
 チャンバラと活劇と喜劇をモーレツなスピードで制作した。
 劇映画を1週間に2本というペースである。
 正月休みもふっとぶということもよくあった。
 したがって、スター級の俳優は年間の出演本数が10本以上なんてザラ。
 売れっこっだった松山宗三郎などは昭和12年の最盛期には年間28本!
 松山宗三郎はのちに演出もシナリオも書くようになる。やがて本名の小崎政房として新宿ムーランルージュの作家に転進する。
 戦後は劇団空気座を率いて、原作田村泰次郎、脚本小沢不二夫、演出小崎政房で衝撃作「肉体の門」のロングラン公演をやってのける。
 監督陣では、石山稔、吉村操、白井戦太郎、佐伯幸三、そして大伴竜三といった人たちが(たとえば昭和11年には)年間16本というペースで仕事をしたいる。
 年末も夏休みもなく、年間に16本の劇映画を作ったのだ。
 大伴竜三は、ぼくの母の妹の旦那だったが、豪放な九州男児の風格で魅力的な叔父だった。だが40歳にならずに急逝した。
 たしか同郷の少年をめんどうを見ていた。その少年もなにやら逞しくて、ニックネームが「サル」だった。
 その男がやがて、黒沢明の「姿三四郎」で主役を演じた藤田進だった。
 藤間林太郎というスターの本名は原田林太郎。時代劇だけでなく品格のある二枚目で現代劇の秀作にも出演した。
 この藤間林太郎の子息が、誰あろう藤田まことである。
 また、チャンバラの〔殺陣〕ではずばぬけて華麗な演技をほこった近衛十四郎の子息が、松方弘樹・目黒祐樹のご兄弟。
 大伴竜三のワイフであるぼくの叔母は、幼いこの二人によくおやつなどを食べさせたとか。
 そのほか、伴淳三郎・大岡怪童・大山デブなどユーモラスでユニークなキャラの役者がワキで大活躍していた。
 大都で助監督をしていた叔父(のちにフジテレビの開局時からディレクターとして活躍、作家としては見習いのぼくを鍛えてくれた小沢效――いま伊豆大島で大好きな釣り三昧で悠々と暮らしている。おヨメさんは当時〔準ミス・あんこ〕だった美人で、ぼくにとっても素敵な叔母だ。
 この大都映画を舞台にしたテアトルエコーの「大都撮影所物語」の登場人物と物語はすべて(せりふに登場する監督や俳優名は実名)フィクションだが、きっと楽しんで頂けるはずだ。乞う!ご高覧。

— posted by 本庄慧一郎 at 01:22 pm  


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総合プロデュース:本庄慧一郎
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