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表現するという仕事はオモシロイ


ふとふりかえってみると―

 ものごころついたトシにはもう、大人の小説を読みふけっているマセガキでした。
 母方の叔父たちに劇作家・シナリオライター・そして映画監督がいたから、当然のように〔物書き〕になりたいと一途に思い込んでいたのです。

 そのせいで、長じて劇団に在籍し、戯曲・演出を学び、その後、ラジオ・テレビの放送作家。そして広告・TVCMのコピーライター。さらに現在の小説の仕事に至っています。文字とのつきあいはじつに長い。


コピ−ライタ−時代の歌の作詞はン百曲?
 もともと音楽好きでした。ラジオではジャズ・ポピュラー・ロック・フォーク・歌謡曲の構成台本を手当たり次第担当。1966年、ビ−トルズ来日のときには武道館に〔取材スタッフ〕として出かけているんですね。
 そのせいかどうか、作詞は大好きです。したがってCMソングに関しては、立川清登・友竹正則(お二人は故人)。小林幸子・森山良子・荒井(松任谷)由実・伊東ゆかり・北原ミレイ・梓みちよ・リリィ・ヒデとロザンナ。そしてデュークエイセス・ダークダックス・尾崎紀世彦・杉田二郎・・・etc。ン百曲を作りました。

あらためて「CMでない歌をかくぞ」
 いま時代小説をせっせと書いていますが、こんどシャンソン、カンツォーネのベテラン歌手、高田康子さんのオリジナル曲を二つ書きました。
 その後(この酷暑の7月〜8月には)「平和を願う歌シリーズ3作品」を作詞もして、これから「この人にぜひ歌ってもらいたいという方」にプレゼンテーションをします。この歌詞は来週、このコーナーに掲載します。乞うご期待!


高田康子コンサートのご案内

 新艶華しんえんか「絹の闇」
               作詞 本庄慧一郎
               作曲 立原 摂子
               歌  高田 康子

みちならぬ運命さだめ 九十九つづら折り
たどりきた小徑みち ゆきどまり
あなたを愛した そのときに
覚悟をきめての 旅だけど
指きりかわせば 滝しぶく
如意輪観音 しだれる桜
ああ堕ちてゆく 堕ちてゆく
月めぐり めぐりての春の宵

惜しからぬ命 ただ熱く
後悔くいのないときを 紡ぎつつ
ふとすれちがった 幼な子の
清らなまなざし 風ぐるま
いろは匂えど 散りぬるを
虚空蔵菩薩 朱いろのもみじ
ああ堕ちてゆく 堕ちてゆく
風ゆれて ゆらめいて初あらし

気がつけばいつか 雪もよい
めぐる思いよ 糸ぐるま
藍のはなびし 京小紋
銀糸の細帯 べにの筆
きのうは捨てよと 鐘の音
大日如来 冬咲くつばき
ああ堕ちてゆく 堕ちてゆく
雪ふわり ふうわりと絹の闇



WHITE LIE ― 白い嘘

               作詞 本庄慧一郎
               作曲 北村 勝彦
               歌  高田 康子

  いつのまにか 小雨が
  雪にかわったわ あなた
 
雪は すすけた街を 美しく隠すけど
ひとの心 いつわるための嘘などは 隠せない
White lie たあいないことだという
White lie それは誤解だよなんて
いつものように そんなことで背をむける
いつものように それですますつもりなの

ひとつ嘘をつくときは 20もの嘘がいる
そんなことを知らないとはね やはり幼いままね
White lie ずっとだまされてあげた
White lie それももうあきあきしたわ
どうやらすでに このお芝居 フィナーレね
せめても いうわ お元気でね ごきげんよう

  いつのまにか 小雨が
  雪にかわったわ あなた



《高田康子コンサート
と  き  2004年10月1日(金)
       開 場 PM6:30  開 演PM7:00
と こ ろ  四谷三丁目「蟻ん子」 03(3357)6404 
チケット  ¥5,000.−(予約制です)

  というワケで今週は本庄慧一郎のもうひとつのフィールドのご紹介でした。

— posted by 本庄慧一郎 at 08:51 am  

ウルサイ・アザトイ・ダサイ―TVCM群


ムカシはよかった、とはいいたくない

 かつて、テレビ文化とかCM文化ということばをよく耳にしました。
 文化とよぶにふさわしい上質の魅力があったのです。
 ぼくは放送作家としてラジオ・テレビ番組にかかわっていたし、また、企画・コピー・制作でラジオ・テレビのコマーシャル作りで働きました。
 いずれの場合も、発展途上にあったそれぞれのギョーカイはんみんな真面目で真摯でしたね。

メディア多様化の中でのテレビは?
 近頃はどうか―たとえばテレビの番組(とりわけ娯楽番組)やテレビコマーシャルの劣悪なこと!文化とはほど遠いモノばかりです。
 たとえばコマーシャルですけれど、ほとんどが「ウルサイ・アザトイ・ダサイ」。
 ぼくが現場で働いていた頃は「CM上手のご三家」といって、サントリー・資生堂・松下電器の3社が挙げられていましたけど、現在はその出来においてさしたる差はありませんね。
 だいたい、「どうしてこんなCMを作るの?」という品性を疑うようなのがやたら多いじゃありませんか。

広告主やCM制作者たちの知性は?
 一例を挙げるなら〔出光〕のCM。番組では「題名のない音楽会」といった文化の香りを大切にした良心的なエンターテインメントを提供をしていながら、あのCM群のひどさといったら……。
 このところ出光のサービスカードをしつこくアピールしていますが、まずデモンストレーションの男女のキャラクターの不気味でウルサイ連呼。これはこれとして、ショッピングのカウンターに現れた女性ユーザーが自分のバックからザラザラと無数のカードをぶちまけるバージョン。さらに男性ユーザーがコートの前を開くと内側にこれはまた無数のカードが仕込まれていて―つまり「出光のカードならコレ一枚」といった自画自賛でしめくくりです。

お客様をコケにして販売促進?
 それにしても、コレってユーザー、お客様をとことんバカにしてませんか。
 こんな表現がユーモアとギャグとかと思い込んでいる広告主やCM制作者の思考の質を疑います。これは販売促進ではなく、販売阻害のCMですよ。
 なんとかテレビという公共のメディアからウルサイ・アザトイ・ダサイといった不快を追放したいと考えるのはぼくだけでしょうかね。

— posted by 本庄慧一郎 at 08:49 am  

巧言令色鮮し仁


小泉サンのあの表情は…

 こうげんれいしょくすくなしじんといいますね。
 ご存じのように「人の顔いろを見てその場かぎりの言葉でごまかす。こんな人間には真の誠意やまごころがない」という意味です。
 たとえば、小泉純一郎サンというお方は、よくいえば当意即妙、ありていにいえば軽佻浮薄の無責任な言動をしきりと使います。
 ひょいひょいと口にするフレーズは、アサハカなコピーライターが考えたキャッチフレーズのように、こころに響いてくるクオリティがないのです。
 それと、のべつニヤニヤしているあの表情は、真摯(しんし)にものを考える人間のそれではない。

考えているひとはそれとわかる
 やはりきちんと物事を考えているひとの表情は、はっきりそれとわかるものです。
 ぼくはいま時代小説を書いていますが、人生修行の第一歩は演劇を学ぶことでした。
 劇団民芸の「ゴッホ小伝 炎の人」という戯曲を書いた劇作家三好十郎氏の劇団の文芸演出部に在籍して、三好十郎氏の書斎で原稿の清書をしたりして直接教えをうけているのです。
 また叔父の劇作家小沢不二夫(戦前の新宿ムーランルージュ出身。美空ひばりの「リンゴ追分」の作詞などもしている)にも脚本や演出の指導をうけました。
 小説でも演劇でも「人間の外面とその内面心理」は研究課題の必須項目ですが、とにかくあの人の表情はどう見ても「誠心誠意」という四文字は感じられません。

簡単に騙されてはいけない
 あの人の表情や態度から感じ取れるのは「自己満足」と「蔑笑」です。
 その彼が80パーセントを超える支持を保っていたということも、ぼくにはまったく納得のいかないことでした。
 あの時「純チャン」と叫んで手をふっていたオバサンたちはこのところ「きよしチャーン!」とやっているようですがね。
 なんにしても、「簡単に騙される日本人」をなんとか返上しなければ、この国は決してよくなりませんよね。

— posted by 本庄慧一郎 at 08:23 am  

続・一通の手紙から始まる


樋口恵子さんへの手紙のつづき

 前回に続いて、評論家樋口恵子さんのことを書かせて頂く。
樋口恵子著「私は13歳だった/少女の戦後史」(筑摩書房)から、前回分の続きである。

以下「私は13歳だった/少女の戦後史」筑摩書房より引用

望田さんのぶ厚い手紙の中身はもう正確に記憶していない。ようするに「自分のことだけ考えていい気になるなよ」という趣旨が、体験をまじえて切々と、大学仲間以上に理路整然と語られていた。家庭の事情で進学できなかった口惜しさは文面にあふれていたが、それは決して怨念や、怨念と表裏一体の上昇志向につながらず、自分自身であることを、同じ二十歳の地平から出発させようというさわやかさがあった。(略)
 負けん気で頑張り屋で人柄のよい望田さんは、その後も勉強をつづけ、著書も数多くあり、マーケティングの専門家となった。「青い実の会」とは望田さんを通して細いながらも交流がとぎれずにつづき、いっせいに還暦を迎えた年に、新宿のレストランでささやかな自前のお祝い会を開いた。小柄でやせた青年だった望田さんは、見違えるほど貫禄がついて、しかし最初に出会ったときと同じような敏捷な目付つきで「これから直木賞を目指して作品を書く」と志をのべた。「はたちの記」のおかげで、私は同時代を歩むそれまで知らなかったグループの仲間に加えてもらった。

 若き日の自分がまわりの人にどんな印象を与えていたのか、という貴重な記録である。 直木賞うんぬんも、このトシになってまだ気負っていると、あらためてたテレるのだが。

もうひとつのプレゼント
 それはそれとして、この樋口さんがもうひとつ《いい動機》をプレゼントしてくれることになる。
 当時、樋口さんの実家は西武池袋線の練馬駅と豊島園の中間に位置するあたりにあり、お招きをうけておじゃましたことがあった。
 欅の大木と高い踏み石の据えられた幅広い縁側が印象にある。お父さまは考古学の研究をなさっていたのだろうか。
 おなじ著書の中で、当時のお家は「家中まるごと学生寮になったような、梁山泊的ムードがあって、私も一緒に騒いだ」と書かれている。その下宿人の中に、劇団戯曲座の俳優がいたのだ。
 この劇団は、劇作家三好十郎さんが主宰していた。三好十郎さんは、昨年他界なさった劇団民芸の滝沢修さんの「ゴッホ小伝 炎の人」の名舞台をはじめ、近代演劇に大きな業績をのこした優れた劇作家である。
 わたしの叔父小沢不二夫がやはり戦前の新宿ムーランルージュで劇作の仕事をしていたことは前述した。
 新宿ムーランルージュとは、当時〔早慶〕の学生やサラリーマンや有名文化人らに支持され、都会的センスで人気を集めていた小劇場だった。
 そこに三好十郎さんもファンとして通っていて、叔父小沢不二夫は後輩として目をかけられていたのだ。

それは生涯の師との出会いのきっかけ
 さて話はもどるが、樋口さんは下宿していた俳優に紹介されて、戯曲座のけい古場(京王線桜上水の宗源寺にあった)に出かけたのだ。そして「望田(わたしの本名)さんは、絶対戯曲座が向いてる。三好十郎さんにお会いになるべきよ」と言ってくれたのである。
 わたしはそのおかげで《生涯の師》としての劇作家三好十郎さんと出会ったのだ。
 三好十郎さんは忘れ得ぬ人である。樋口恵子さんは大事な友人である。


— posted by 本庄慧一郎 at 08:43 am  

一通の手紙から始まる


樋口恵子さんへの手紙

 テレビのワイドショーとやらの番組には、評論家と称する方が大勢出演なさっている。ヒョーロンカというよりヒョーロクダマといったほうがいい雑感屋ばかりだ。しかも皆さんエラソーに喋っている。
 さてここでは、4分の1世紀以前からの知己、社会評論家の樋口恵子さんのことにふれてみたい。
 いま樋口さんは、婦人問題、高齢者福祉問題、教育問題と幅広く活躍する「信じられる評論家」である。樋口さんとは、彼女が東大の学生だった20歳のときに知己を得た。
 それはたしか読売新聞が主催した成人の日(当時は1月15日)を記念する「はたちの記」の論文募集で樋口さんが学生の部第一席になられたことがきっかけだった。
 昭和26(1951)年のことである。樋口さんは旧姓柴田さんといった。
 わたしは便せん10数枚に感想をしるして送った。そのころのわたしは、身辺事情から進学を断念、父親の仕事をいやいや手伝いながら演劇を志していた。その苛立ちや、学生に対するある種の羨望が入りまじった、少々偏屈な意見だったといまにして思うのだが。
 しかし、樋口さんからは謙虚で柔軟性に富んだご返事が届いた。
 いま手元に樋口さんがご恵贈くださった著書がある。(「私は13歳だった/少女の戦後史」筑摩書房)そのご本に私との出会いのことがしるされているので引用させて頂く。 (文中の望田市郎はわたしの本名である)

以下「私は13歳だった/少女の戦後史」筑摩書房より引用

「青い実の会」とのであい
 はたちの記念に投稿という決意表明をしたのはいいが、だからといって自分の行き方が確立するはずもなく、あいかわらず浮き足立った迷いの日々の連続だった。メディアの少なかった時代、周辺「学内有名人」になってしまい、みんなに「おごれ」「おごれ」といわれたのがオチであった。「幼稚っぽいこと考えてるんだなァ」と軽蔑のまなざしを向ける仲間もいて、今後、金輪際投稿のようなことはするまいと、心から誓った。
 とはいえ、今となってはいくつかの副産物があった。全国からの感想文が、ファンレター的なものから辛口批評まで、優に段ボール箱一つ分届いた。みんな目を通し、心に残った手紙には簡単な礼状を書いた。その中で、本ものの論文以上に力を入れて返事を書いた手紙があった。望田市郎という、四角い文字の手紙は、私と同年、つまりはたちを迎えた青年からのもので、高等小学校(今の中学と思えばよい)を卒業後、町工場で働く労働者と名乗っていた。私は「あなたのお便りに、お調子ものの私はガーンとハンマーで一撃を食らった思いでした」と書きはじめた。

重要なきっかけ
 「青い実の会」とはいわば文学サークルのようなもので、小学校の同期生を中心にした集いであった。
 わたしはいまもって《毛並み》とか《育ち》といった言葉が嫌いだが、しかし、樋口さんからのお手紙の文章を読んでいて、その嫌いな二つの言葉を、あらためて羨望をまじえた気持ちで反芻したものだ。
 このひとは《聞く耳を持っている》ということも強く心をうった。
 次回でもう少し樋口さんの文章を紹介させて頂くが、樋口さんはもうひとつ、わたしに《重要なきっかけ》をプレゼントしてくれたのである。

— posted by 本庄慧一郎 at 08:15 am  


*** お知らせ ***
自主CDを制作
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平和を願う歌
「鳥になれたらいいね」
総合プロデュース:本庄慧一郎
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