「社会&芸能・つれづれ愚差」第19回(通算129回)

顔・顔・顔のこと
 8月2日付の複数の朝刊を(午前5時)に開く。
 安倍ナントカ氏。赤木某氏。スモウ朝青龍とやら。そしてマンガ家とかいう楳図ナニガシ氏。
 さらにもうひとり阿久悠氏と、その訃報があった
 阿久悠氏以外の人とは、じかの面識はない。同時にそれらの人と「じかに会いたい」などとはけして思わない。
 有楽町にあったニッポン放送で、本庄一郎というペンネームで放送作家として仕事を始めたのは昭和32(1957)年。(当時お世話になったディレクターI氏とは現在も交流があるが)
 当時、お名前は失念したが、ある放送作家の発案で、「これからの作家10人の会」といった主旨の会合に招かれた。
 集会の場所は、麹町日本テレビ社へ新宿通りから入ってちょっと手前を右に折れた美容院だか酒屋の木造の2階(階段がギシギシ鳴った)だった。
 たしか、放送作家らしき風態の男たちが10人ほど粗末なテーブルを囲んで座っていた。紹介された。そのうちの一人が阿久悠さんだった(はずだ)。

同時代のギョーカイを生きた
 でもぼくは、その作家集団に入らなかった。
 ぼくの記憶に誤りがなければ、そのときの〔集団〕が母体となって現在のテレビ番組制作の大手「オフィス・トゥ・ワン」になったと思う。
 当時の東芝EMIの宣伝のファイター大谷信夫氏(彼の仲人をやらせてもらった)を通じて現在の同社の社長の海老名氏や角田氏とも何度かお目にかかった。
 ぼくはゲーノーやテレビ・ラジオ、またレコードなどのギョーカイで仕事をしていながら、ずっとある種の〔違和感〕を引きずっていた。(それはぼくの小さなわがままであったのだが――)
 阿久さんは「月光仮面」(原作川口康範)のテレビ番組などを制作した広告制作会社宣弘社に在籍していたが、そこから離脱してフリーになった頃だったか。
 ゆっくりお話をしたいと念じながら、ぼくの〔人見知りの性格?〕ゆえにその機会なく時は経った。
 あれは昭和47(1972)年頃だったか。サクラカラー(現小西六)のCF(ヒロインは若き日のアン・ルイス)でCMソングを作詞した。制作プロデュサーはのちに第4回山本周五郎賞を受賞した作家稲見一良だった。
 歌詞の「♪北北東に進路をとれ。きょうも地球は機嫌がいい。光りあざやかサクラカラー〜」という歌詞を阿久悠さんが週刊誌のコラムで取り上げてくれ、「地球の環境が悪化するばかりの昨今、作詞者のアイロニーがこのに歌詞にあって……」などと書いてくれた。
 そういえば、故青島幸男さんも阿久悠さんも、いま益々元気な永六輔さんも、同じ時代のマスコミ・ギョーカイを生きた方々だ。

5000曲の歌詞とヒット曲オン・パレード
 そのヒット曲のタイトルをつぶさに眺めてひたすら感嘆する。
 かく申すぼくは、ラジオ・テレビのライター、ラジオ・テレビCFのコピーライター。そして時代小説(書き下ろし文庫ざっと40冊ほど)、そして“初志”である舞台脚本に新しい挑戦をと……気が多いというか一途さに欠けるというかあれこれやっている。
 同時代のマスコミ・ギョーカイに生きた先輩同輩の業績を知るにつけ、さまざまな感慨が胸をよぎる。
 阿久悠さんの〔偉業〕に素直に賞賛の拍手をしながらも……また1日400字詰めの原稿用紙1日15枚に励む2007年8月3日である。

P.S.
 安倍内閣とその周辺事情の劣化現象にはひたすらうんざりする毎日である。
 そう……アベ・アカギ・ヤナギサワ・キューマ・アソー、そしてマツオカさんとかいう閣僚たち、とにかく危なっかしいね。
 こころ根の腐っている人間のことばは、すべからく失言になるし、すべて妥当性を欠く――ですよね、阿久さん?



おお!図々しき鈍感力よ!

— posted by 本庄慧一郎 at 01:22 pm  

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