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「ニッポンの芸能人」シリーズ95

07年2月12日――ル・テアトル銀座の舞台
 「恋のカーニヴァル」というタイトルの舞台を観た。
 劇場の造りは立派。シートもゆったりしているし、客席数も芝居を観るのにちょうどいい。
 前回、1月には日本映画「早咲きの花」(浅岡ルリ子主演)をやはりこの劇場で観た。
 第二次世界大戦末期を、主役のヒロインが回想する筋立てだが、物語の内容には好感を持ったが、なんせ客席はまばらで拍子抜けした。
 で、今回の「恋のカーニヴァル」。主演は風間杜夫・秋吉久美子。秋吉というヒト、最近、自分の年齢の半分以下とかの若い男性と再婚するとかどうかで、テレビのインタビューに応じていたが、この舞台を観るかぎり、エロキューション(発声・発音・抑揚・アクションなど表現術の一切)まるでダメ。セリフ術なんてまるで関係ないヘタさでした。
 こういうヒトがかりにも銀座の一流劇場の主役を演ずるとは、どういうことか。
 ぼくが観た日は客席は3分の2(いや、半分か)だったが。あれじゃあね。
 芸達者といわれる風間も、「女はスゴイ。秋吉久美子のように若い男と……」とか、「秋吉サンは地で演じている……」とか、下等なギャクを口走っていたけど、あの笑いはあきらかに「失笑」だね。
 あの戯曲がどこのヒトのものかとか、演出はダレかとか、まったく興味が失せました。タイトルも「恋のスキマ風」と変えたら。

シバイのこともう一つ
 井上ひさし先輩にあこがれていますけど、でも、ねぇ。
 最新作「私はだれでしょう」(こまつ座――紀伊国屋サザンシアター)は、例によって(!)台本の遅れが原因で初日を2回8日間ずらしてやっと開幕したとか。
 この先輩の遅筆ぶりはとくと承知しているけど記憶をたどればいくつもありました。
 初台の新国立劇場のコケラ落とし「紙屋町さくらホテル」は、畏敬する俳優丸山定夫にかかわる物語ということで馳せ参じたけれど、あきらかに台本の遅れによる美術・照明その他モロモロ、そして出演者たちのオロオロさかげんがむしろ気の毒で哀れでありました。
 コチトラ、文筆業として、ラジオ・テレビ・CM、そして近頃は文庫書き下ろし時代小説(1冊400字詰め原稿用紙350枚)、さらに昨年11月〜12月のテアトルエコー(井上センパイにえにしの深い劇団)での台本と、まあ、あれこれやってますけど、メ切り不履行なんてこと、誓って言いますけど一度もありませんね。
 そう、わかっています。一流と三流B級の違いなんでしょうね。
 いいなあ、一流って。もしぼくが、舞台の初日を遅らせるようなことしたら、いっぺんに干されるだろうよ。
 いいなあ、一流って。(とは言ってはみるが、一流になる気はない――)

P・S
 さて、明日は劇団民芸の「はちどりはうたっている」(紀伊国屋ホール)という創作劇を観る。さてさて。

— posted by 本庄慧一郎 at 05:23 pm  

「ニッポンの芸能人」シリーズ94

本庄慧一郎のメモ帳から

「年をとった馬鹿は、若い馬鹿よりも始末が悪い」(ラ・ロシュフコー/フランスのモラリスト)
「年をとったウソつきは、若いウソつきより始末が悪い」(本庄慧一郎)


「ウソには税金がかからない。だからこの国にはウソが満ち満ちている」(ドイツの諺)
「ウソは我欲と自己保身で固められている。だから、この国も人間社会もウソばっかりなのだ」(本庄慧一郎)


「軍隊は、ひとつの国家の中の国家なのだ。それが現代の悪だ」(ヴィニィ/フランスの詩人)
「軍隊は、自分は絶対に戦場に行かない卑怯者の謀略に、まんまと嵌められた若者たちの集団だ」(本庄慧一郎)


「正義のないところに自由はない。自由のないところに正義はない」(ゾイメ/ドイツの詩人)
「自由のないところに正義はない。正義のないところにまっとうな人間は暮らせない」(本庄慧一郎)


「群をなしてやってくる思想は無頼漢である。よい思想は小さな仲間と組んでやってくる。偉大な思想はただ一人でやってくる」(エッシェンバッハ/ドイツの詩人)
「戦争をしたがる政治家は死の商人の親戚である。ただ頭を下げて責任を逃れる者は結局は良心の呵責に呻く。良心の呵責に苦しまない者は地獄に堕ちる」(本庄慧一郎)


「礼儀正しさは人をうるわしく飾る。しかし、その「飾り」には一切金はかからない」(イギリスの諺)
「法に反する者は、おのれの人生を醜く汚す。しかし、この愚行は現実化するためには、人間らしい努力は一切要らない」(本庄慧一郎)


「人は食うために生きるのではない。生きんがために食うのである」(トルストイ/ロシアの作家)
「人は理想のために生きるのではない。征服欲と我欲のために生きるのである」(本庄慧一郎)

— posted by 本庄慧一郎 at 03:43 pm  

「ニッポンの芸能人」シリーズ93

それにしてもヒドイ世の中になったものだ
 現在の政治及び政治家の質、あるいは行政とそこに従事する者の質、さらに一般社会を構成する人たちの質などなど、いったいどうなってしまったのかね。
 当方、もともとそれほどエラソーなこと言えたガラではないが、まあまあきわめて常識的なセンをなんとか崩すことなくやっているが、でも虚偽・偽装・欺瞞。詐欺・詐取・詐術。八百長・やらせ・裏取引き、そして……きりがない。
 どこまで堕ちるのかい、人間のモラル。

女性は赤ん坊を産む機械だって
 公人たる者の失言というのもあとを絶たない。
 「女性は赤ん坊を産む機械」と口走ったナントカ大臣もメチャクチャだが、あのイシハラという都知事はすでに「ババア」なんて言葉で、とんでもないことをさんざん口走っている。
 現在、公費濫用の問題では「おれはいじめられている」などと目をパチパチさせて勝手なことをほざいているが、彼のゴーマンさはただ肚立たしいね。

現在の腐敗の原因を選挙民は再検証しなさい
 いわゆる「政党55年体制」というのがある。
 1955年10月、左右両派に分裂していた社会党が統一されて日本社会党になり、11月には、自由・民主の保守党が合体して自由民主党になった。
 二大政党時代などといわれたが、結局、数では1対2分の1ということで、以後、自民党が独走する。
 以来半世紀あまり。現在の政治・社会……その他もろもろの腐敗と堕落はすべて原因は彼らにある。
 すくなくともぼくは、彼らを選んでいない。彼らの言っていること、やろうとしていることを納得していない、認めていない――。
 にもかかわらず、屁理屈・小理屈、そしてとんでもない暴言・失言の輩がのさばっていて、状況はさらに悪化するばかりだ。
 選挙民はいったい何を考えている。いや、しっかり意志表示もしない棄権人種はどういうつもりだ?

テレビというメディアもその制作者・出演者も……
 NHKという組織も質も全面的に信用できない。
 民放もまた、愚かしい阿呆番組をタレ流してい、いやになる。
 ほんとに、救われないなあ。

— posted by 本庄慧一郎 at 05:07 pm  

「ニッポンの芸能人」シリーズ92

気質・体質とは変えられるのか?
 このところ連日、新聞の政治・社会面は、不快な事件と醜聞ばかりで、なんとも肚立だしく、そして情けない。
 その一例が「発掘!あるある大事典」とやらのテレビ番組のデータねつ造問題だ。
 さんざん新聞や週刊誌、はたまた同種同族のテレビ等で取りあげられたので、こまかくは言わない。
 つまり、制作体制に一貫性なく、ポリシーも管理も、また責任の所在もひたすらいいかげんだということだ。
 つまり、ピンハネ丸投げの得手勝手なこのシステムは、建造物の「丸投げ」行為と同質であり、二つ、三つ、さらに四つ……といった無責任丸投げ行為の結果は、劣悪な商品が市場に出るのは当然である。
 ぼくはかつて放送作家、広告のコピーライターとしてウンザリするほど仕事をしたので、放送のテレビや広告の制作現場は熟知している。
 ずばり、いかがわしく、うさん臭かった。
 そこにいる人たちの(全部とは言わないが)かなりの者たちの気質と体質になじめなかったが、とにかく我慢して仕事をした。
 現在も彼らの、いや彼らを雇って利益をあげている企業の気質や体質は変わっていないと断言する。

おれたちに出来ないモノはないね
 大手広告代理店のスタッフは上記のような、というよりナポレオンと同じコトをよく口にしていた。
 でも彼らは一言つけ加える。「だって、どんな注文でも外部の専門家に頼めばいいわけだからね」と。代理店の代理店たるところといえるがね。
 でもこれは「ピンハネ・丸なげ」のことをいっているのである。
 たとえば、スポンサーを迎えての企画制作会議が開催される。
 営業局長以下、営業専任担当スタッフ、マーケティング局、媒体局、制作局等、ぞろぞろざっと30名余り。ぼくら外部のスタッフも末席につらなる。
 2時間ほどの会議は終了し、その結論である企画案をまとめて2週間後に提出することになったが、会議終了後、皆さんはさっさと姿を消し、制作担当者3人(なんとこの中に同業のコピーライターもいる!)が残って「それじゃあ望田さん(ぼくの本名)、コレまとめておいて下さい」と言い残してさっさと去っていくのだった。
 これはまぎれもない「無責任丸投げ」だ。
 こういった中味からっぽで大仰な形式主義・事大主義は、たぶんいまだに横行していると思う。
 番組「発掘!あるある大辞典」なんてスケープゴードのようなもので、現行のほとんどの番組とさしたる相違はあるまい。
 ただし、愚にもつかないバラエティ番組とか、出演者が視聴者を無視しての悪ふざけしているだけのお笑い番組などはとりあえずの「実害」がないだけだ。

結局、人間も、企業も政策も体質は変わらない
 たとえばダイエットで体重を減らすなどという単純なことする思うに任せない。ましてや、気質にかかわる短気を治すとか怠けぐせを正すとか、嘘つきを改めるとか盗癖を断ち切るとか……こんなことすら俗人にはままならない。
 あの不二家と同質同様の企業犯罪のようなケースは山ほどあるが、いったん病み、腐蝕した企業の体質はほんとうに変わるのか。疑問だね。(そういえば、あの不二家では、社員激励会(パーティ・宴会)などで揃ってうたえる楽しい歌を、という注文で数十種類の商品名を織り込んだダジャレ・ソングを作詞した事があったなあ――好評だった!)
 もう一つついでにいえば政党とその周辺で離散集合をくり返すジジイたち――この輩の気質も体質もまるで変わらないね。
 公金を寄ってたかって食い荒らす厚顔無恥もうす穢い金権主義もあいかわらずだ。
 現在の腐りきった政治・社会、また乱れ切った教育行政と福祉・医療行政などなど、その結果の社会不安は人心の荒廃させた。これは「自民党55年体制」がもたらしたとんでもない「負の遺産」ではないのか。
 この「自民党55年体制」の悪しき気質と体質を放置してきた選挙民の無自覚と無責任も、許せない。

— posted by 本庄慧一郎 at 04:43 pm  

「ニッポンの芸能人」シリーズ91

ウソは〔人間〕の始まり

ウソっ臭い嘘、ウソばっかりの社会と政治
 詐欺と偽装とインチキばかりが横行する社会である。
 政治(家)から始まって、各種官庁、地方行政府。企業、メーカー、そして大小の金融業からリフォームなどの中小企業、さらに個人レベルの詐欺や横領など、ウソ八百でベタ塗りの昨今である。
 もともと「ウソ八百」というコトバがウソ仕立てだ。
 とりあえず時代小説作家のハシクレだから「大江戸八百八町」だの「旗本八万騎」、「大阪八百八橋」などオーバーな表現には慣れっこである。
 そういえば中国などには「白髪三千丈」とかいったオーバー表現は山ほどあるが、だいたいオーバーな表現はウソの始まりだね。

ウソつきは〔人間〕の始まり
 このところまた、アベ内閣の現役閣僚をはじめ、現役議員、そして品川区(その他イロイロの)地方公務員らの公費にかかわる不正濫用疑惑(俗に公金ドロボーという!)が続発している。
 内容は使用料タダの議員宿舎に妾(のような者)と同棲したり、自分の家を〔事務所〕として届けてたっぷりの家賃を公費として請求したり、政務調査費で飲み食いやカラオケにうつつをぬかし、かと思えば公務の名をかりた宴会で、お接待係の女性にチカン行為をしたりと、まあ、どれもこれも、食いけとウソと横暴ばっかり。
 つくづく思う。「人間って哀れだなあ。人間って哀しいねぇ」

ぼくの資料棚で最近のさばっている本たち
 ぼくの現在の棲み家の風景はヘタな古本屋と似たようなものだ。
 書斎はもちろん、天井までの本棚が三方を囲んでいる。そのほか二つの部屋も本棚ぎっしり。2階への階段は片側は本ダナ。床にも本、壁ぎわも本。
 ぼくが死んだら、古本屋が開業できるゾ、と口走ったりする。
 放送作家・コピーライター時代の蔵書は一部を除いてほとんど江戸時代の資料と入れ替わった。
 昨年末のテアトル・エコー公演「大都映画撮影所物語」の好評につい図にのって、目下、時代小説執筆と平行して舞台のコメディをと意欲している。
 10企画ほどの資料箱には関係資料本をバンバン入れておくが、このところ目立って多いのが〔詐欺〕関係の本。  いわく「世界のペテンと詐欺の大百科」「詐欺師入門/騙しの天才たち」「人をその気にさせる話術」「悪知恵マニュアル」「悪徳商法/あなたはもう騙されている」「詐欺とパクリの裏手口」「詐欺師の手口90」「詐欺師のすべて」「怪しいお仕事」「騙す人ダマされる人」「平成の裏仕事師列伝」……キリがないのです。
 詐欺師のコメディはいくらもあるが、これで、ヨーシ、決定版を書いてやるゾ、なのデス。

ひとつのウソをつくと新しい20のウソを考えなければならない
 それにしても、いまのテレビドラマのほとんどが、あまりにもウソっ臭くて、どうにもシラケるね。
 もともと舞台の戯曲も映画のシナリオも、小説もフィクション。ウソの素材をどうほんとうらしく見せるか、読ませるかが作り手たちの技だが、まあ、いまのテレビの、その軽々しくアサハカな作りようといったら……。
 とりわけ、民放テレビなんてタダだからどうでもいいが、カネを巻き上げるのにキュウキュウとしているNHKのモノだって(ドラマはドラマとして)番組全体では見なくてはのちのち困るというほどのものはない。
 あの不祥事とスキャンダル続発のダンタイの本質にフタをしておいて〔強権発動〕するとは、これは「押し売り詐欺」ではないのかね。
 NHKの番組に代る情報ツールやエンターテインメントなどいくらでもあるのだよ。  それにしてもウソどっぷりの社会とそこにうごめく人たち――ぼくはフィクションというウソをタネにした仕事をして半世紀、カツカツだが生活をしたきたが、現実では努力してウソをつかないようにしている。
 だって「ひとつのウソをつくと20のウソを――」なんて計算したら、とてもそんな才能ないことに気付くもの。とにかく気が小さいから、そんな大胆なことしないね。

   ――――――――――――――――――

 いまの社会、ウソを取り除いたら、なにが残るのかね。

— posted by 本庄慧一郎 at 05:08 pm  


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自主CDを制作
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平和を願う歌
「鳥になれたらいいね」
総合プロデュース:本庄慧一郎
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