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わが旅立ちと美空ひばりの“リンゴ追分” |
パート1 第2回 |
わたしの来歴
マスコミ業界、とりわけ電波をメディアとする業界は、お化け屋敷みたいである。
その理由はあとで述べるとして、物書きを志していながら、そんなお化け屋敷のような不快な場所になぜ入りこんでしまったのか。
ここでわたしの来歴をリプレイする。
母親のきょうだいに、劇作家がいた。二人の弟たちも映画にかかわっていた。妹の旦那も映画監督だったのだ。
劇作家の叔父は、かの新宿ムーランルージュの座付き作家だった。
のちに、美空ひばりがうたう「リンゴ追分」を作詞している。もともとこの歌が挿入歌として使われた「リンゴ園の少女」というラジオドラマや映画の脚本を担当していた。
小沢不二夫というこの叔父の影響で、当然のようにわたしは物書きになったのだ。
昭和20(1945)年。いわゆる第二次世界大戦が負け戦として終結した。
軍国少年として教育されていた。一定の年齢に達したら兵士になることを、軍人になることを叩きこまれて育った。ひたすら「お国のため」「天皇陛下のため」に殉死せよと言い聞かされてきた。
「天皇陛下の賜る勅語」や「軍人勅語」を丸暗記しながら、じつは、吉川英治の「宮本武蔵」や中里介山の「大菩薩峠」の分厚い本をむさぼり読んでいた。
叔父の書斎に並べられている本を借りたのだ。山と積まれた本は、貴重な風景だった。
新宿ムーランルージュ
ゲーテの「若きウェルテルの哀しみ」も読んだ。ド−デーの「風車小屋便り」の頁も繰った。
ロマン・ローランの「ジャン・クリトスフ」も手にとった。「宮本武蔵」や「大菩薩峠」にくらべると外国ものは難しかった。
でも、児童向けに書かれた殺伐とした戦争ものよりはなんとなく親しめた。
「若きウェルテルの哀しみ」では、ウェルテルのいちずな恋の思いの半分も、いや三分の一も理解できないのに、なぜか胸をドキドキさせて読んだ。つまり、マセがきだったのだ。
叔父の劇作家小沢不二夫は、新宿のム−ランルージュという劇場で脚本を書いていた。
一、二度、父親と一緒にその劇場に行った。
まだ小学校一年生のころだった。昭和14(1939)年ころである。
愛くるしい踊り子たちが、狭い舞台で踊っていた。脚を上げると、太腿や白いパンツが見えた。めまいを起こすほど刺激的だった。
すでに日本は対中国との戦時態勢に入っていて、軍事や警視庁から「若い女性の肌の露出は自粛しろ」という指令が出ていたと、のちに資料で知った。パンツの股下を長くしろという命令もあったとか。
ムーランから出たスターたち
この劇場では芝居もやっていた。いわゆる<ム−ラン調>といわれたユーモアとヒューマンにあふれた物語が主だった。
若き日の黒澤明も観にきていた。高見順や菊池寛といった著名な作家や、滝沢修の「炎の人」を書いた劇作家三好十郎ファンだったようだ。
望月優子、有島一郎、左ト全の名優たち。そしていまでいうアイドルともいえる明日侍子という美少女らが活躍していた。(戦後に再興したム−ランからは森繁久弥が出ている)
キレイなおねえさんは、マセがきの心をわしづかみにした。 |
2001/01/01 |
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