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エッセイ「ニッポンの芸能人」シリーズ1 |
パート2 第7回 |
越路吹雪さんの宝塚時代
現在は時代小説家ということになっている。でも、ぼくはもともと演劇を志していた。
だからいまも月に2回〜3回ほどは、(歌舞伎から商業演劇、そして新劇系の公演、さらにライブコンサートまで)こまめに出かける。
当然、資料のコレクションもいろいろある。
その中に、大正・昭和にかけての貴重な劇場公演のパンフレットもある。
今回をシリーズ1として「ニッポンの芸能」と題してユニークな事項をピックアップして書いていきたい。
昭和16年(1941)8月東京宝塚劇場のパンフレット
上記の昭和16年8月とは、日本が第二次世界大戦に突入する4ヵ月前である。
ザラ紙の小型パンフには「宝塚歌劇団花組公演」とある。そして「逃すなスパイ、喋るな機密」というスローガンが印刷されている。広告主には、松坂屋 ・白木屋・服部時計店・花王・東横電車などがある。
素朴なコピー、稚拙なデザインがむしろ懐かしく、広告の歴史の資料になる。
さてその演目だが@「歌劇・滝廉太郎」、A「舞踊劇・ハンガリヤ狂想曲」、B「こども風土記」の3本立てだ。
2本目の「ハンガリヤ狂想曲」の配役表を眺めると、100名越える出演者の末尾のほうに「越路吹雪」とあった。つまり、ン十人も出る「村の青年」役のオシリから5番なのだ。「へえ!」とうなって、「こども風土記」の配役表を見ると、そこには「男の子」として、日高澄子・乙羽信子の名があった。(のちのこのお二人のは映画スターとして君臨したのはご存じのとおり)
コーちゃんはそのとき17歳だった!
本名内藤美保子。大正13年(1924)2月18日東京生まれ。コーちゃんはそのとき、なんと17歳! その他大ぜいであった。さらに資料を調べると初舞台は昭和13年(1938)とある。
ちょうどいま、和田誠さんの「ビギン・ザ・ビギン」という、いまは姿を消した有楽町日劇の盛衰を記録した本を読んでいた。(和田誠さんとは、ぼくが広告の仕事をしていた時、合同酒精のハチハニーワインのポスター制作でアートディレクションを依頼。フォトは立木義浩さんだった――お忘れでしょうか?)
その文章の中に、コーちゃんがしばしば登場するのだ。
日劇のショーの演出家山本紫朗が、コーちゃんと初めて出会った時のこと。またコーちゃんが唄うコール・ポーターの「ビギン・ザ・ビギン」が絶妙だったことなど、エピソードはすべて楽しい。
そして昭和25年(1950)、コーちゃんは「東京の門」(東宝)という映画に初出演して大好評。
この年の10月に日劇に初出演したとある。そして「ビギン・ザ・ビギン」を唄ってまた大好評。
その後、帝劇コミックオペラ「モルガンお雪」(作菊田一夫、共演古川緑波・森繁久弥)で大ブレーク。それから1年してコーちゃんは東宝に移籍。帝劇での「マダム貞奴」「お軽と勘平」(共演榎本健一)と実績をあげ、平行して日劇のステージ、映画で人気は高まるばかり。
コーちゃん17歳という時代は?
昭和16年8月――第二次世界大戦に突入するわずか4ヵ月前。すでに「日本暗黒の時代」のハリケーンは吹き荒れていた。
新聞雑誌等の言論統制。食肉やタバコの販売規制など戦時体制に拍車がかかる―。
そしてまた一挙にエスカレートする軍事政治は「マイクロホンは敵だ!」とがなりたてる。
ジャズレコード盤は憲兵の泥靴で踏み砕かれる。
ハワイアンソングの歌手灰田勝彦が糾弾されスチールギターの使用禁止。さらにテナーサックスがアメリカ的な音でけしからんと追放された年であった。
というわけで、おあとは次回に。
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昭和三年 |
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2004/10/21 |
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