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エッセイ「ニッポンの芸能人」シリーズ3 |
パート2 第9回 |
石原裕次郎と水ノ江滝子
水ノ江滝子こと「ターキー」は、浅草国際劇場(現在の浅草ビューホテルの場所にあった)を常打ち劇場とする松竹少女歌劇団のトップスターだった。
本名三浦ウメ子。大正4年(1915)北海道生まれ。昭和3年(1928)、浅草松竹座で東京松竹楽劇部(5年後に松竹少女歌劇団と改称)が発足した。
その第一期生の中に13歳のターキーがいた。
ちなみに昭和3年のデータを調べると、「国産電気レコードの発売」という項目がある。
藤原義江の「波浮の港」と宝塚少女歌劇団で唄われた「モン・パリ」などである。
現在のCDという音盤にたどり着くまで76年という歳月があったわけだ。
水ノ江滝子が「男装の麗人」として熱狂的人気を集め、それから25年間、スターの座に君臨する。
しかし、戦争へと突入する日本の暗黒時代、例によって「男装の麗人」は政府ににらまれることになる。
ヨレヨレ、ペラペラの1枚のパンフ
演劇・映画の古いパンフレットのコレクションの中に、ペラペラの1枚の「劇団たんぽぽ水ノ江滝子一座」のパンフレットがある。
浅草松竹劇場公演が、昭和19年(1944)5月という日付。1年3ケ月後、日本は敗戦という修羅場を迎える。
この公演の演目4本のうちの2作品は、ぼくの叔父、劇作家小沢不二夫の脚本である。
当時、劇場の楽屋へ遊びにいったとき、ぼくとは年齢の離れた弟が水ノ江さんに抱かれていたのを、ひたすら羨ましがったのを覚えている。
そのターキーは劇団たんぽぽを解散する。
その理由は座長のターキーを除く座員全員が脱退したからだ。かれらは田村泰次郎原作の「肉体の門」(脚色は小沢不二夫)を舞台化、戦後の演劇史に記録される大ヒットをとばすのだ。(このはなしはまたの機会にご紹介するとして)
裕次郎をスカウトする
その後、NHKテレビの「ゼスチュアクイズ」などの番組で新しい人気を集めるターキーだが、やがて日活映画のプロディユーサーとして、かの石原裕次郎をスカウトする。
石原慎太郎原作の「太陽の季節」。主役は長門裕之だったのだが、裕次郎がこの映画でデビュー。
裕次郎24歳。当時の「ツッパリ族」。
プロデューサーとしてのターキーは、このわがまま青年に三つの約束をさせるのだ。
@タイトルやポスターなどの芸名の配列に口を出さない。文句をいわない。A取り巻きをつくらない。Bスターになってもスターぶらないこと。
その後の裕次郎についてはご存じのとおり。
それこそスターとして一世を画したターキーは、裕次郎の人間形成には先輩としてあれこれ気遣いをした。
しかし、「タフガイ」というキャッチフレーズとはうらはらに、裕次郎は若くして死ぬ。52歳の死は、いずれにしても人間として不幸だ。
芸能界の人気者の行方
スターダムにのし上がるとか、その業界で他を押しのけて君臨するということはどういうことなのか。
ぼくは芸能界、テレビ界、またコマーシャル業界で生きてきた。
有名人といわれる者、また有名人になった者はたくさん知っているが、ほとんどの者が思い上がり、勘違いし、ゴーマンになり、鼻持ちならない人間に堕落する。
「バブル崩壊」といわれて10年も経つが、そのバブルの毒素は、思い上がった人間の心根を腐蝕させている――といい続けてきた。
大阪マンザイの片割れである島田紳助の例をあげるまでもない。かつてのビートたけしなどの〔暴走〕など、ビンボー人が余分な金を持つときっと脱線する。
常識を逸脱した人間がいっぱしの面をしてのさばる芸能界のうさん臭さに耐えられない。そのあざといギョーカイから積極的に逃げ出した。
ターキーとかわした三つの約束を、裕次郎はきちんと守ったのだろうか? よくいわれる「若過ぎる死」とは、思い上がったゴーマンな人間たちに与えられた罰ではないのかと思う。
そういえば、ダイエーの中内功、西武の堤ナニガシ、さらに銀行などの経営者たち……自分の人生を自分で汚している人間は枚挙にいとまがない。
「有名と金」は、人間を狂わせると思う。
いま水ノ江滝子さんは、ご自分のペースをくずさずに、ゆっくり暮らしておられるようだ。
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新国劇一座
昭和四年 |
青年歌舞伎劇
昭和十一年 |
帝国劇場
昭和二年 |
市村座
昭和三年 |
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2004/11/04 |
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